「困った人」とどう付き合うか [<九子の万華鏡>]
先日は「サイコパス」の話をしたし、そのちょっと前は「困ってる人」を取りあげた。
今回は正真正銘の「困った人」の話をしようと思う。
九子はいつも言う通りダメ薬剤師であるので、薬剤師会の講習会、しかも土曜日の午後2時からなどという、一人でやってる薬局の人はお店閉めて来てくださいねというお話にはとても乗れないと思っていた。
ところが今回、いの一番に乗ったのである!( ^-^)
何しろ講師が精神科医の春日武彦先生だ。 薬局なんかいつだって閉めちゃうもんね。(^^;;
九子の中で春日先生はずうっと、ものわかりのいい新しいタイプの精神科医だ。
もう15年前くらいになろうか、まだ九子自身も自分の病気を知らず、ただ確実に何らかの心の病なんだろうとは思っていた頃、そして「うつ病」という病気に世間の偏見があった頃、別冊宝島の「ココロの薬とつきあう本」で林公一先生なんかと一緒に対談されていたのが春日武彦先生だった。
「ココロの薬」とつきあう本―安定剤飲みますか?仕事やめますか? (別冊宝島 (432))
- 作者:
- 出版社/メーカー: 宝島社
- 発売日: 1999/04
- メディア: ムック
林公一先生のサイトは今でも九子が大いに参考にさせて頂いているのだけれど、正直言って林先生は少々怖い。(^^;;
だけど春日先生は、いろいろな著書を拝見してもなんとなく優しそうで頭が柔らかそうな感じがした。
当日春日先生は、白黒チェックの厚手のフランネルシャツに黒のジーンズ、革のスニーカーといういでたちで現れた。
昭和51年生まれ。M氏と同じ年だった。
案の定、会場は「先生の御本をたくさん読ませて頂いて、ぜひ本日は直接先生の講演をうかがいたかった。」などという医療関係者であふれていた。もちろん九子もその一人だ。( ^-^)
(もっとも医療関係者という自覚は最初から欠如しているが・・。(^^;;)
演題は「対応困難な患者の理解と対応・・・パーソナリティー障害を中心に」であった。
要するにクレーマーとか、病院ならモンスターペーシャント、学校ならモンスターペアレントというような困った人たちに対してどういう風に対応すべきかという事だ。
パーソナリティー障害というのは要するに人格障害のことだ。カタカナにすることで響きを柔らかくしているらしい。
クレーマーと言う程度の「困った人」たちは、人格障害の中でも要するに境界例とかボーダーラインという言葉で言い現される「境界性人格障害」の人々が多い。
もちろん彼らは「死んでやる!」と叫んでビルの3階、4階あたりから飛び下りて(助かるぎりぎりの線らしい。)勢いで本当に死んでしまうことはあっても、本気で人殺しをすることはない。
つまり社会に危害を及ぼす人々ではないが、その人が一人居るおかげで仕事が進まなかったり、誰かのストレスが高まったり、みんなが振りまわされたり、つまりは、はた迷惑な人たちと言う事になろうか。
「境界性」と言う言葉は、神経症とも統合失調症とも鬱病とも言えない境界線上の人々ということらしい。
今流行の「新型うつ病」(林公一先生おっしゃるところの「擬態うつ病」)も多くはこれに含まれる。
人格障害、要するに性格の偏りである以上、薬もカウンセリングも入院も、実はあまり役に立たない。つまりは治らない。だから精神科医泣かせであるらしい。
九子の主侍医のT先生も、いつだったかクリニックの大ガラスを境界例の人に壊されたと渋い顔をしていらした。
T先生のような良心的な精神科医ほど境界例の人がわんさと詰めかけて困らされる事が多いようだ。
「困った人」の特徴をあげると、プライドが大変に高くて自分は特別扱いされて当然と思っていること、思い込みが強くて自分の思う通りにならない時に「こういうことは時々誰かにたまたまあるさ。」と考えることが出来ないこと、常識とかアタリマエがわからないこと、そして怒りっぽくてキレやすいと言う事、それとよく言われる見捨てられ不安・・という事らしい。
先生の講義で笑ってしまったのだけれど、こういう人たちというのは普通の社会に居ると困りものなのだけれど、そういう人々が生き易い世界というのも実際あるらしい。
たとえば銀行員なら困るけど、暴力団ならOKとか、事務員じゃあ使えないがキャバクラなら大丈夫とか。(^^;;
美貌と才能と腕力があれば生きていける世界、つまりは芸能界や風俗や暴力団は人格障害の人たちの溜り場!
なるほど!それっぽい人達が多い気がする。
それと、たとえば企業やお役所の上の方の人になればなるほど「困った人」であっても目立たないらしい。
先生が例をひいたのは作家から大都会の首長になったあの人のことだった。(^^;;
それではこういう困った人たちにはどうやって対処したらいいのか。
まず、曖昧な態度は禁物ということ。
だがここで難しいのは、いきなり「ダメです!」と応ずるのは愚の骨頂ということだ。
彼らの怒りに油を注いでとんでもないことになる。
言い負かす、つまりは相手を論破するのもダメで、そうすると更にいきり立ってまた別の議論をふっかけられたりする。
要はこちらも時間をかけてじっくりと構え、のらりくらりと、ある時はぬけぬけと、相手の攻撃をかわして行く事が望まれる。春日先生は2時間くらい相手をすると向こうも疲れて帰って行くとおっしゃってた。
何たるエネルギー!
相談の最初はあくまでも低姿勢に。彼らの怒りをガス抜きする必要が在るので、「拝聴する」という態度が大切だそうだ。
くれぐれも彼らの挑発に乗ってこちらまで興奮してしまわないように。そして彼らのペースに引きずられたり、絶句したり、慌てたり、おどおどしたりはこちらの敗北である。
大事な事は態度はソフトに言葉は優しく。だけど、出来る、出来ないはきっぱりと。はっきりと。
かなり難しそうだが、一例をあげればこんな風だ。
「それはお困りですねえ。わたしが何とかしてあげられるならよかったのですが・・・。残念です。」
芝居っ気たっぷりに「私も悔しいですよ。」などと付け加える事も可能だ。
声は小さく低めに。これによって相手との距離が近づいたという感じを向こうに持ってもらえるそうだ。
相手の話の中の感情の部分をくりかえす事も有効。
相手が「むかついた。」と言ったところで、「むかついちゃったんですか。それはそれは・・」みたいに。
(でもこれって言うタイミング間違えると却って相手を怒らせちゃって逆効果かも・・・。(^^;;)
これは確か、子供を叱らないで自分で気付かせるためにも有効な心理的プロセスだったような・・。
子供の言ったことを親がただただ繰り返す。「そう。悲しかったんだね。」「ああ、泣きたかったのね。」「すごく嫌だったんだね。」という風に、子供の気持ちにより添う。
相手の気持ちにより添うという事で、困った人たちもある程度感情を和らげてくれるらしい。
時にはメモを取ったりして、誠意を持っている事を示す。
とにかくアタリマエがわからない彼らに、「世間の常識」を教えてあげるという態度も重要。
「言わずもがな」や「暗黙の了解」も彼らは全然理解していない。
組織に属している人ならば困った人たちは権威に弱いので、時には上の人にお出まし頂いて話を聞いてもらうことが有効なこともあるそうだ。
パーソナリティー障害の見分け方としては、なるべく多くの回りの人たちに彼らの評判を聞いてみて、その人の評価の振れ幅が極端に大きければ疑ってみるという事らしい。
肝心の「困った人たち」が生まれる原因についてのお話はなかった。
もちろんそれは今回の講演の目的ではなかったからだろうが、やっぱり春日先生にうかがってみたかったと思う。
ダイアナ妃がそうだとか、尾崎豊がそうだとか言われるが、「境界性人格障害」は最近わかった症例という訳ではなく、古いところでは太宰治なんかがそうだと言う。
お金が在るのに給食費を払わないなんて昔は考えられなかったから、昔と比べて増えて居るんだろう。
こうやって聞いてるうちになんか九子はムカムカして来た。
だってみんなこんなに「困った人」に困らされて居るのに、彼らはちっとも困ってないんだよ!
この対処法じゃあいくらなんでも弱腰というか、下手に出過ぎてるんじゃない?
案外彼らは今まで困らされたことが無いから、逆に困らせてやればわかるんじゃないの?
そうしたらこないだ偶然、テレビでそういう場面をやっていた。
出て来たのはお金はあるはずなのに税金を長い間滞納してる人を自治体が強制的に徴収してる場面だった。
最初に出てきた男性は、給料が滞っていてとても税金が払えないと言っていたのに、職員が最後の手段として滞納者の車のタイヤにストッパーみたいのを付けて、払うまで車を動かせなくして、期限までに払わなければオークションにかけると言うと、彼は慌てて現金を出してきた。
ちなみに例として画面に出てきたベンツは、そうやってオークションにかけられて80万で落札されたものらしい。
何百万、いや数千万のベンツが80万で売られちゃうとしたらやっぱりちょっと考えるよね。
その次に出てきた女性は、「うちにはお金なんてありません!」とヒステリックに騒ぎたてていたのに、豪華なジュエリーをオークションにかけると言われて、20万もの現金をどこやらから出してきた。
(う~ん、ジュエリーかあ。九子もわかるな、その気持ち!(^^;;)
実は九子の回りにも「困った人」とその人に振りまわされてる家族が居る。
彼女のお嫁さんが「困った人」なのだ。
彼女の息子さんもそういう人をつきあってる間に見抜けなかったものかと思ってしまうけれど、それはとても難しいらしい。
彼女のお嫁さんは今でも、人前ではとても明るいいいお嫁さんだからだ。
家事一切を彼女に任せて、お嫁さんはほとんど一日中具合が悪いと言って寝ている。
その癖、ディズニーランドや旅行には大はしゃぎで出かけて行く。
そして疲れて帰ってきて、更に具合が悪くなる。
お嫁さんはリストカットや、ひどい時には二階から飛び降りたりするので、彼女は目が離せない。
上の子はもう高校生になる。彼女が世話を焼いてやらなければ、子供たちはいったいぜんたいどうなっていたのだろう?
彼女ももういい歳だ。倒れて脳の手術も受けた。
その彼女がなんにもしないお嫁さんのために今日も2階へ食事を運んでいる。
本当に彼女が気の毒だ。
そしてなんか変だよねえ。
困った人たちは実に巧みだ。
弱いところを突いてくる。優しい人に甘えてくる。
だから私たちはもうちょっとずつ強くならなくてはならない。
春日先生みたいに辛抱強く耳を傾ける強さと、そしてきっぱりと出来ないことは出来ないと言い張る強さを持たなければならない。
「Noと言える日本」、確か春日先生に「困った人」と言われた作家さんがが書いた本だったよね。(^^;;
「NO(ノー)」と言える日本―新日米関係の方策(カード) (カッパ・ホームス)
- 作者: 盛田 昭夫
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 1989/01
- メディア: ハードカバー
もっともこれは私たちより、どっかの国の政治家さんたちに、特に口を酸っぱくして言っておきたい事なんだけど・・。(^^;;
さらば、マイぷれす [<その他>]
無料ブログサイト「マイぷれす」がこのたび9年にわたるサービスを終了することになった。
九子は2003年10月にブログを始めている。マイぷれすが始まって半年ほどで書き始めた事になる。
こう見えても割合年季は入っているのだ。( ^-^)
ただ更新のペースがいかんせん長すぎる。(^^;;
でも最初の頃は、きちんきちんと三日に一度更新していた。
そもそも「九子のダメ母の証(あかし)日記」というタイトルに忠実に、今日はこんなドジをしましたというのをずっと書き続けて、1年経ったら止めるつもりだった。
マイぷれすに書いた紹介文はこうだった。
登場人物 九子、5人の子供達(上から順に R、S、Y、N子、M子)
M氏・・・九子の夫くん、九子の両親、他
実は3男2女の母である九子はしかし、出来過ぎ母になんでもやってもらって育ってしまった一人娘ゆえ、トロくてなんにも出来ない落第母である。
子供を産んでからも事情は変わらず、大変なところはみんなやってもらう「生むだけ母」でもあった。でも今振り返ってみると、「ダメ母で良かった!」と思う。そんな思いを書いたのが笠原十兵衛薬局のHPにある「ダメ母のすすめ」だ。
ところがここでちょっとした誤算があった。世の薬剤師方がよほど優秀なせいだろう。「いやしくも薬剤師の九子さんが、そんなにトロい訳ないじゃない。信じられないわ。」という反応である。
そこで、いくらなんでも薬局のHPにはあぶなっかしくて載せられないことを、この日記に書いて行く事にした。要するに九子のドジ日記である。多分すぐにでも種切れでおしまいになることを信じたい。
尚、もし暇と興味がおありなら、坐禅とうつ病の話に出てくる笠原十子と朝原九子の証言もついでに読んで頂くと、こういう人間が育ちあがった訳がわかるかもしれない。
そもそも、ダメ母の前はダメ人間。根暗のダメ人間から明るいダメ母へ。華麗なる変身を遂げたその理由は・・・・?とにかく読んで見てね。( ^-^)
あっ、初めて告白しますが、十子ちゃんというのも私のことですからね。( ^-^)
当時はまだ長男が二十歳で末娘が小6の頃。九子もしっかり母親だった訳だ。(^^;;
九子は何度も言うように薬局の一人娘に生まれたからしかたなく薬大へ行ったが、頭の中は生っ粋の文科系だ。
友人は少なかったが(^^;;、でも手紙やメールは毎日のように書いていた。
九子の文通相手の中には、御年90歳の村井昌治先生もいらした。”The Falk Tale of Shinano”「信濃の民話」を英訳された英語の大家だ。こういう地元の有名人とは、たいてい父を通して知り合った。
とは言えまとまった文章を書くのは毎年の年賀状に頭を絞るくらいで、あとは子供たちの文集や活禅寺の機関紙の原稿を頼まれた時くらい。
正直、こんなに長く書き続ける事になろうとは思っても居なかった。
ちょっとした転機になったのは最初の頃に書いた「銀杏談義」だろうか。ダメ母日記だけじゃなくて、こういうのもいいかな?と思い始めた。
書き進めるうちに、自分は書く事が好きなんだという事を再認識し、我ながら上手に書けた時の喜びを体験し、際限なくとは言わないがこれからもまだまだ書けるかもしれない・・・などと夢を持っている。
こうやって書く機会と書く場を与えてもらったからはじめてわかったことだった。
考えてみると九子は小さい頃からずっと一人ぼっちだった。もちろん両親にも祖父母にも十分すぎるほど可愛がってもらったが、友達と遊ぶと言う経験が少なくていつも家の中に居たので、テレビを見る以外は一人の時間が長かった。その上、手足を動かす事は大嫌い。根っからの怠け者なのである。(^^;;
そうなるとおのずと頭の中で考えをめぐらすしかない。とは言え、決して創造的な頭の使い方ではなく、
考えても考えても大して役に立たない事を考えるだけ。(^^;;
そういう言わば妄想癖は、九子が覚えている限り小学校低学年にはもう出来上がっていた。
友達の居ない九子ちゃんは、一人教室に残ってガラス窓から校庭で遊んでいる友達をじっと眺めていた。時折先生に促されて仲間に入る事はあっても、九子は決して楽しんでなどいないのだ。
そうすれば先生が誉めてくれるだろうと思うだけで、なわとびもドッジボールも鉄ぼうも鬼ごっこも、はっきり言って何が楽しいのか全然わからなかった。
こういうのって「自律性」っていうんだよね。自分のやりたい事がわかっていて自分から行動を起こす力。
自分から遊べる子供の自律性は高い。
いつも出来すぎ母の指示待ちをしていた九子の自律性は極端に低かった。
中学、高校と進んでも、事情はほとんど変わらず。
同じ班の子たちや同じ部活の子たちとはそこそこ楽しくやっているが、学校を離れたらもうそれまで。
何しろぬくぬくのお家が大好きだったから。( ^-^)
あっ、高校時代はそれでも割合楽しかったかな?優等生を脱する覚悟ができたからね。( ^-^)
その高校時代に、一年間だけ教えてもらった国語の先生が九子に自信を与えてくれた。
そもそも九子は国語の勉強をほとんどしたことがなかった。テストの前は漢字練習を20分ほどするだけ。
自慢じゃないが高校時代、本も一冊も読んだ事が無かった。まあ、国語は入試に関係ないやと思ってたのかもしれないけど・・・。
それでも3年間、どういう訳だか国語の成績は常に10だった。
必死に勉強するのに、どうやったって万年9の英語とは対照的だった。
ある時先生が絶対に90点を取れない様に作ったというテストで、九子は一人90点を越えた。その時先生は「このテストで90点を越えた奴は天才か気違いだ!」と言われた。
ブログを始めて、この世の中には天才か気違いがそこらじゅうに溢れていることを知った。
それでもへこたれた時にはその言葉をよりどころとしている馬鹿な九子である。(^^;;
それに、今になるとやっぱり努力して勉強したことのほうが役に立っていることがよくわかる。
必死で覚えた英語の知識は今でも十分通用するが、ほとんどすべてを勘に頼っていた国語のノウハウは、娘や息子に教えようったって伝わらない。(^^;;
そんな訳で万が一九子に国語力があったとしても、書く材料がなければ書き続けることは出来ない。
ある日ふと、もしかしたら九子に染み付いた役に立たない妄想癖が書く材料の調達に寄与しているのかもしれないと思った。
いつも言うけど、九子に友達が少ないのはきっと一人でも十分楽しいからだ。
考え事をしているとすぐに時間が経ってしまう。
考え事のその上に、過去を反芻する癖もある。
楽しかった事、どきどきした事、悲しかった事、ああすれば良かったなあと思う事、そういう事を思い出してはにやにやしたり、はらはらしたり、無念に思ったり・・・。
そんな事、何度考えても未来にはつながらない。わかっちゃいるけどやめられないのである。
そんな中でたまには一つ一つの経験を普遍化して考えをまとめる事もあった。
無駄と言えば無駄な時間の使い方なのかもしれないけれど、ブログを書き始めてからその無駄な時間に価値が在ったような気がしてきた。
そんな気持ちを後押ししてくれたのが、「人生のほんとう」などの名著を何冊も残され、若くして病死された池田晶子さんのこんな言葉だった。
「私は、ひとりでいることがまるで平気、むしろその方が好ましいのですが(中略)、ひとりで自分を味わい、思索することの面白さ、一度これを覚えると、他人との関係にはさほど執着しなくなるようです。いや、むしろ逆に、孤独の豊かさを知っているからこそ、他人との関係も本当に楽しむことができるようになると言えましょう。
なぜなら他人との関係とは、その他人の中に自己を見ることに他ならないからです。自己認識が深いほど、関係は深く充実したものになるはずです。(略)」
<死とは何か>より
もちろん九子の場合は池田晶子さんのような崇高な孤独ではありえない訳だが・・。(^^;;
マイぷれすは小さいブログサイトだったが、創生期からある正統派で良質なブログサイトだった。
そしてなぜか検索に良く引っかかった。
ブログを続けるうちに、以前はほとんど検索に引っかからなかった「雲切目薬」が上位に出てくるようになった。
「疲れ目 目薬」でも「かすみ目 目薬」でも100ページめくってもダメだったのに、2ページ目くらいに「雲切目薬」を発見した時は嬉しかった。( ^-^)
ダメ母、ダメ薬剤師のブログという性質上さすがに薬局のホームページからは表立ってリンクしていなかったが(^^;;、ブログの方からは薬局に積極的にリンクしていたのが功を奏したらしかった。
「九子」と検索すると、一番最初に出てくるのがマイぷれすのブログだ。この順位はリンクされてる薬局の順位にも当然影響し、Google adwardsというおこずかい程度の金額で出来る検索広告でも表示位置を押し上げる。
現在Googleで「花粉症 目薬」と検索すると上か右側の一番わかりやすい位置に表示されるはずの「雲切目薬」のリンクも、もしもマイぷれすが消えてしまったらどうなってしまうんだろうかと少々心配になる。
いずれにしてもマイぷれすはあと10日ほどで消えてしまう。
マイぷれすでブログを始めてよかったと、今、心底そう思う。
孤軍奮闘の管理人のサンドさん、長い間ご苦労様でした。m(_)m
★九子のダメ母の証(あかし)日記はこれからもso-netで「九子のダメ母の証(あかし)日記 in so-net」として、まだだらだらと(^^;;書いていく予定です。
The stranger [<九子の読書ドラマ映画音楽日記>]
2012年一月一日。二年参りを終えて床に着いた九子は、普段の九子であったならまずはほとんど経験した事の無い暗い不眠に悩まされながら、一年で一番めでたいはずのこの夜にこの本を手にしてしまった自分の浅はかさを後悔していた。 晴れの日であるべき正月に読むには最低最悪の本だった!
去年のクリスマスくらいに本棚にあるのを見つけて、絶対に前に読んだはずなのに内容をまったく覚えていなかったことに愕然として再読した。
たしか保険金殺人の話で、主人公は保険金詐欺を調査する保険屋さんだったよね。
九子が覚えていたのはそれっきりだった。(^^;;
要するに サイコパス と言われる快楽殺人犯の話なのだが、作者の貴志裕介はさすが京都大学出身のインテリだけあって話の膨らませ方が実にうまい。
九子がめでたかるべき大晦日夜から元旦にかけて読んだのは、殺人者が殺人を犯した「黒い家」で主人公が仲間の死体を見つける一番グロテスクな部分で、めでたさも一瞬にして吹き飛ぶど迫力だった。
(^^;;
この本で殺人者は人格障害者とされている。
人格障害の中でも、同情、良心、後悔などの心的機能を根本的に欠いている「情性欠如者」であると言う。
情性欠如者の中でも特に重症でその他に抑制欠如と爆発性性格の三つがそろった場合を「背徳症候群」と言い、凶悪な殺人を犯す場合が多いそうだ。今回の殺人者はこれに当てはまる。
人格障害というのは例のタリウム少女や酒鬼薔薇少年のところでも書いたが、もともと脳に欠陥があってそうなったものか、教育や環境によるものか、専門家の間でもまだ意見が分かれているらしい。
九子としてはたとえそれが将来的に望みの無い方向に行く話になったとしても、もともとの脳の欠陥が主なる原因で、育てられ方や環境はあまり関係無いんだよという結論になって欲しいと切に願う。
だって親はそれでもこれでも一生懸命に子供を育てるんだよ。
生まれた時は考えに考え抜いて一番良い名前を付け、ある時期までは子供が家庭の中心という生活を送り、運動会だ、やれ音楽会だと写真やビデオを撮りまくり、子供が勝ったといっては喜び、負けたと言っては悔しがる。
誰だって子供を殺人鬼に育てようと思う親などいないと思うんだ!
それなのに、必死になって育てたはずの子供が人を殺してしまう。
やりきれないよねえ、親の育て方が悪かったなんて言われたら・・。
それよりも、親は懸命に育てたのだけれど子供の脳に欠陥があって狂暴な人間が出来上がってしまってどうしようもなかったと思える方がまだ救いがある。
人格障害というのは極端な例だけど、誰の心のなかにもどす黒い何かがうごめいている。
普段は顔をのぞかせない得体の知れない獣は、突如として、多くの場合怒りを発端にしてうごめき始める。
普段と違う彼や彼女の中の獣は、家庭内なら割合容易く見つかるに違いない。もとより家庭とはそういうところだ。飾りを剥ぎとって「素」をさらけ出す場所だからだ。
思いがけず電話口で家庭の秘密を知ってしまうことがある。その人がいつもと違う大きな声で家族の誰かとといがみあう声が聞こえて来たりもする。
自分の中の獣はなるべく外に現れない様に気を付けているつもりだけれど、疲れていたり、忙しかったり、気分の悪い時には、獣は良い空気を吸いに外に出たがるようだ。
そして、隣のうちまで聞こえるような大声で怒鳴ってみたり、壁をどんどん叩いてみたり、手当たり次第物を投げつけてみたりというその人らしくない行動が出る。
獣と言うと人聞きが悪いが、かの大歌手にして名ピアノ奏者であるビリージョエルは、それを"The Stranger"(自分の中の他人)と言った。
ビリージョエル。九子の青春の思い出だ。
九子は確か当時大学生で新宿北口広場にたたずんでいて、大判振る舞いにそこにいた人々皆に配られた今で言うところのプロモーションレコードを手に取った。それがビリージョエルとの出会いだったと記憶している。
"The Stranger"のレコードジャケットは日本の能面を見入っているビリーの横顔がとてもセクシーだった。
彼は今よりずっと若く、やせていて高い声がよく出た。(当たりまえか・・。)
ビリーは自分の中の他人=別人の顔を隠そうとするのではなくて、もっと恋人や家族に普段から見せておこうと歌う。他人=別人の顔を恋人に日頃から慣れていてもらおうと歌う。
いざと言う時にびっくりされないように・・・。
サテンの顔、シルクの顔、スチールの顔、レザーの顔、それらのありきたりの別人の顔の中に混じって、ビリーが新しく見つけた日本の能面。
アメリカ人の彼にとっては、能面はとても新鮮に映ったことだろう。
ひとつの顔が、悲しさも喜びも怒りも笑いもすべての表情を鮮やかに紡ぎ出す万能の仮面。
だから若かりしビリーは魅入られて、見惚れているのではないのかな?
考えてみると日本人は昔から万能の仮面をつけ続けて、いや、つけさせられ続けて生きてきたのだと思う。
自分の考えを押し殺して、怒りを閉じ込め、長いものに巻かれて、いろんなものを潔くあきらめて微笑みながら生きてきた。それが能面の基本の微笑みの表情だと思う。
いろいろな表情を一つの面で現す万能の能面を作り出すというのもいかにも日本人らしい。
ビリージョエルじゃないけれど、これからの世の中、とくに政治家の方々には、日本人の別人の顔を世界中にさらけだして欲しいと思う。
怒る時は怒る、悲しむ時は悲しむ、誉める時は誉める、喜ぶべき時は喜ぶ。
そして言うべき事はきちんと言う。
奥ゆかしさは貴いが、日本人だけしか理解できない心情を世界に向かって振りかざしたって仕方が無い。
★Mu-ranさんこと大指揮者の村中大祐さんが、masque=お面についての深い深い考察を書いて下さいました。是非お読みください。
★訳をお借りした宮寿陵さんも「The stranger」についての興味深いブログ記事を書いていらっしゃいますので、こちらも是非御参照下さい。
The stranger /words & music by Billy Joel
Well we all have a face
That we hide away forever
And we take them out and show ourselves
When everyone has gone
Some are satin some are steel
Some are silk and some are leather
They're the faces of the stranger
But we love to try them on
Well we all fall in love
But we disregard the danger
Though we share so many secrets
There are some we never tell
Why were you so surprised?
That you never saw the stranger
Did you ever let your lover see
The stranger in yourself?
Don't be afraid to try again
Everyone goes south
Every now and then, woo...
You've done it, why can't someone else?
You should know by now
You've been there yourself
Once I used to believe
I was such a great romancer
Then I came home to a woman
That I could not recognize
When I pressed her for a reason
She refused to even answer
It was then I felt the stranger
Kick me right between the eyes
Well we all fall in love
But we disregard the danger
Though we share so many secrets
There are some we never tell
Why were you so surprised
That you never saw the stranger
Did you ever let your lover see
The stranger in yourself?
Don't be afraid to try again
Everyone goes south
Every now and then, woo...
You've done it, why can't someone else?
You should know by now
You've been there yourself
You may never understand
How the stranger is inspired
But he isn't always evil
And he isn't always wrong
Though you drown in good intentions
You will never quench the fire
You'll give in to your desire
When the stranger comes along
**********************************************
The Stranger / Billy Joel (1977)
translation by Miya_Juryou <宮寿陵 訳>
そう、僕らはみんな顔を持っている
それを僕らは永遠に隠すのさ
そして僕らはそれを取り出し自ら眺める
誰もいなくなると
あるいはサテン あるいはスチール
あるいはシルク そしてあるいはレザー
それは別人の顔をしているんだ
でも僕らは好んでそれを付けようとするんだよ
そう、僕らはみんな恋に落ちる
でも危険は無視するんだ
とても多くの秘密を分かち合うけれど
決して言わない事がある
なぜ君はそんなに驚いたんだい?
一度も別人を見た事がないなんてさ
今までに恋人に見せたことがあるの?
君自身の内なる別人を
怖れずに もう一度やってみて
誰もが(エデンの)南へ向かう
誰もが時々
君がやった事を 他の人が出来ないなんてありえない
理解すべきだよ、もう
君自身そこにいたんだから
かつて僕は信じていた
僕は実に偉大な夢想家だった
あの時オンナの所へ帰った
それが彼女だと理解できなかった
彼女に理由を強く尋ねると
彼女はいかなる答えも拒絶した
その時に 僕は感じた 別人に
ちょうど眉間のあたりをキックされたと
そう、僕らはみんな恋に落ちる
でも危険は無視するんだ
とても多くの秘密を分かち合うけれど
決して言わない事がある
なぜ君はそんなに驚いたんだい?
一度も別人を見た事がないなんてさ
今までに恋人に見せたことがあるの?
君自身の内なる別人を
怖れずに もう一度やってみて
誰もが(エデンの)南へ向かう
誰もが時々
君がやった事を 他の人が出来ないなんてありえない
理解すべきだよ、もう
君自身そこにいたんだから
君は決して理解できないかもしれない
どのように別人がインスパイアされるか
でもそいつは常に邪悪ではなく
そして常に間違っているわけではない
君は善意に溺れているけれど
決して炎を消せないだろう
君は自らの欲望に屈するだろう
安心立命 [<坐禅、仏教、お寺の話>]
Kさんからの年賀状はその最たるものだった。
7~8年前まで、わが家のすぐ前でピアノ教室を開いていたKさん。
東京から引っ越されてすぐ、その行動力と明るさでまたたくうちに生徒さんを増やし、わが家の娘二人と
出来すぎ母も、いつのまにか彼女の生徒の末席に加わっていた。( ^-^)
出来すぎ母は小さい頃にピアノを習ったがすべて音感に頼っていたので、楽譜は特にシャープやフラットが増えて来るともう読むのがめんどうになる。
それでも年を取って暇が出来るとまた昔のようにピアノを弾いてみたいと思ったようだ。
その血を受け継いだ九子も同様に譜面を見ずになんとなあく弾いていて、母に言わせると「おっぽけばっかり弾いて!」と言う事になる。(そんな九子はピアノとは早々におさらばした。(^^;;)
おっぽけというのは、でたらめとか間違いとか言う意味の、これは稲荷山弁なのかな?
(今気がついたけど、もしかしたら語源は「大呆け」かも・・。)
Kさんはピアノ初心者でも「どうしてもこの曲が弾きたい。」というリクエストがあれば、その曲がなんとか弾けるようになるまで指導してくれた。
出来すぎ母も、「別れの曲」や「トロイメライ」を一丁前に弾く事が出来るようになった。
まあそんな訳で、Kさん御一家が大家さんの都合で三年ほどでここからそう遠くない別の場所に移って行かれるまで、Kさんは九子の数少ない友人の一人であり、わが家3人のピアノの先生であった訳だ。
九子がのけぞったのは、後から気付くと二年ぶりに届いたKさんからの年賀状の「脳死肝移植」という一言だった。
えっ?「脳死肝移植?信州大学病院で?」
Kさんはいつも元気いっぱいの人で、肝臓が悪いなんて一言も言っていなかったのに・・・。
早速電話して聞いた話はこうだった。
彼女は一番下のお子さんを生んだ時、C型肝炎に感染してしまっていた。
その後ずっと、ほとんど症状が出ないで済んでいたのだが、5年ほど前から症状が出始めて、肝硬変、肝癌へと進んでしまい、癌は肝臓全体に広がり、生体肝移植では間に合わず、肝臓全体の移植しか打つ手が無くなっていた。それが2010年の秋頃。
「来年のお正月は迎えられないかもしれない。」という余命宣告を受けながら、彼女は持ち前の勝気さで泣いても仕方がないと開き直って、前向きに、ひたすら前向きに、看護師さんに「何がそんなにおかしいの?」といぶかしがられるほど笑いながら毎日を送っていたそうだ。
「子供たちだって一番下がもう二十歳。ここまで生きてやればもう母親の責任も果たしたでしょ。」
彼女の強さはこういう割きり方だ。とても九子と同じ一人っ子とは思えない。
そういう前向きな気持ちが、確かに彼女に幸運をもたらした。
余命ぎりぎりの2010年の12月、肝臓の型が彼女とぴったりのドナーが現れたのだ。
そして7人の主侍医による23時間にも及ぶ手術が始まり、何度も生死の境をさまよいながらも、彼女いわく、「ベートーベンの生誕日に生まれ変われた。」のだそうだ。音楽にぞうけいの深い方は御存じだろうが、12月16日の事だそうだ。
幸い拒絶反応も起こらず、一ヶ月後にはもう退院して、長野から松本まで小型の酸素ボンベをひきづりながら受診を続けたそうだ。
そんなKさんのことは県下初の脳死肝移植ということでもちろん名前を伏せて地元紙やテレビでも取りあげられたそうで、見る人が見れば彼女だと言う事がすぐにわかる記事だったと言うが、九子は全然知らなかった!
そして彼女はこんな不思議な話もしてくれた。
彼女の肝臓は北の方から空輸されて来た男性の肝臓なのだそうだ。臓器はユニセックスなんだね。( ^-^)
そして移植手術中、彼女は不思議な夢を見ていたそうだ。
男性がどんな風に死んだのか、そして彼のお葬式の様子、それらが手に取るように見えたのだと言う。
そして麻酔からさめた時、彼女は彼女のものになった肝臓にこう語りかけたそうだ。
「よろしくね。縁あって私の身体の一部になってくれた肝臓さん、これからはずっと二人で頑張りましょうね。」
「もう一年経ったから、すっかり元どおり元気になったわよ。薬(免疫抑制剤)は死ぬまで飲むけどね。
お金はすっごくかかったけど、命もらったんだもの。信州大学(医学部)優秀よ。考えてみたら肝臓移植最初にやったの信大病院だったもんね。先生方みんなアメリカへ留学して研鑚積んでるの。東京の友達に、長野に居たから助かったって言われたもの。そんな普通じゃ会えもしない優秀な先生方がみんな私の主侍医になってくれて、今じゃ気楽に話せるんだもん。それだけだってすごい体験よ。」
「私のピアノのお弟子さんさあ、みんな優秀で信州大学医学部へ3人も入ったのよ。」
一流のピアニストになるような人は頭脳明晰じゃないと絶対に成れないというのが彼女の持論だった。
言われてみると確かにそうだ。10本の指を別々に動かすという離れ業は、とてもじゃないが九子みたいなとろい人間には出来るはずがない。
「入院してるとさあ、夜中に泣き声が聞こえてくるの。泣き声で眠れないって人も居る。睡眠薬もらう人も居る。だけどもうしょうがないじゃない。泣いてたって何も始まらない。そんなら明るく笑っていようって思った訳。」
これらの言葉から垣間見られる勝ち気で前向きで陽気な彼女の性格が、彼女の術後の免疫力を高めるのに大いに効を奏した事は言うまでも無い。
癌患者でも、前向きに生きる人の方が予後がいいってよく言われる。
だけど九子にKさんと同じ事が出来るかと言われたら自信が無い。
もちろん九子は必死に坐禅をするだろう。それによってだいぶ不安は小さくなるに違いない。だけど果たしてKさんみたいに達観できるだろうか。「子供も一番下が20歳になったんだから、もういいじゃない!」
そんな風に思えるだろうか?
九子は活禅寺で「安心立命」という言葉を習った。仏を信じて(坐禅をして)安心しきって、自分の使命をまっとうするという意味だ。
若い頃はなかなかわからなかった「自分の使命」だが、この頃なんとなく見えてきた。たぶん大きく外れてはいないと思う。
若い頃は別の事を自分の使命と思い込んだ時期があったが、それはやっぱり間違いだった。それが自然にわかってきた。
自分の使命はそんなに自分とかけ離れた難しいことの中には無いようだ。
そういうことがわかってくると、年を取るってまんざら悪い事ではないと思えてくる。
仏教では一期一会だの、会うは別れのはじめだの、今日と言う日が二度と来ないことを戒めることわざが多い。
Kさんみたいに人生を2回も味わうような体験はそうそう出来ないと思う。普通の人はたった一度の人生だ。
九子なんかはその人生もそろそろ先が見えてきて、とにかく死んでいく時に悔いだけは残したくないと思うようになった。
自分の使命はわかった。ならばその使命のために何をなすべきか。
今年はそんな事を考えながら過ごせたらいいなあと思っている。
年賀状2012 [<薬のこと、ダメ薬剤師のこと、家のこと>]
明けましておめでとうございます。ことしもよろしくお願い申しあげます。m(_)m
新年早々更新をさせて頂くつもりが、ふだん居ない子供たちがぞろぞろ帰って来て急に「九子さんちの大家族」になるとふだんの3倍ほどの仕事量になり、精も魂も尽き果てて長時間のお昼寝が必要だったり致しましてこんなに遅れてしまいました。どうかご容赦を。
さて、まず新年恒例の年賀状のお披露目から・・。
**************************************************************************************************************************
迎春
辛く悲しいことの多い一年でしたから、今年こそ明るい希望の年となりますように。
薬局の一番の収穫は、長年の謎であった元祖雲切目薬「一子相伝」の材料の中身がわかったことです。たまたま薬局にいらっしゃった薬科大学の先生が分析して下さいました。
また、雲切目薬が地元テレビで取り上げられ、今回は林家三平さんとお忍びで佐智子さんもおいで下さいました。
タウンページのCMに出てくる海老名香葉子さんが丹精込めて
整えられたおうちの中で、ムーミン一家のように仲睦まじく暮らしていらっしゃる様子が目に見えるようで、少なくとも「蛯老名さん家のちゃぶ台」返しは有り得ないと思います。
還暦を迎えたM氏は、娘二人の薬大の学費が肩にのしかかり、
夢に描いていたリタイアもままならず意気消沈しております。
息子3人もそれぞれの道を可も無く不可もなく歩んでおります。
今日も昨日と同じように生きていられる幸せをかみしめたいと思います。 平成24年 元旦
******************************************************************************************************************************
「一子相伝(いっしそうでん)の石」というのは、薬局の古い薬箪笥に入れられた得体の知れない石のことです。
古い安物の茶封筒に「一子相伝 シンジュ」と書かれて長いこと入っていましたが、それが代々の店主にしか伝えられなかった元祖雲切目薬の秘密の原料であったこと以外、まったくの謎でした。
その石は青みがかった灰色をしており、直径1cmくらいの小ぶりな石で、砂利みたいにたくさん入っています。触ると白い粉が指につく、チョークと石の合いの子みたいなたぶんもろい石です。
それが旧式の(B4)茶封筒の三分の二ほどあったのですが、九子が勝手に偉い学者さんと間違って、その上その人が「もっと入れろ、もっと入れろ。」と言っているのだと勝手に解釈して、その人の連絡先も訪ねずに100グラム以上を渡してしまったため、現在は茶封筒の半分くらいになってしまっています。
それでもすぐその後に偶然薬局においでになった帝京平成大学薬学部の鈴木重紀先生が、わずか5グラムほどをお持ちになったきりで長年の秘密を現代の精巧な分析の機器により解明して下さいました。心より御礼申しあげます。
m(_)m
石の中身はほとんどが亜鉛で、ごくごくわずか水銀が入っていました。
亜鉛というのは元祖雲切目薬の成分中に多量にふくまれています。たとえば硫酸亜鉛、たとえば酸化亜鉛、それらは雲切目薬の主要成分の一部です。
実は「ごくごくわずかの水銀」というのがミソなのです。
当時善光寺の近辺には郭(くるわ=遊郭)がたくさんあって、善光寺参りのお客さんや近隣の郭の無い地域からお客さんがたくさん来ていたそうです。(たとえば松本は武士の町なので郭などは無くて、松本からのお客さんも多かったとか・・。)
当然性病が蔓延するのですが、水銀は抗菌作用があるので性病、特に梅毒に良く効いたそうです。梅毒は目にも症状が出るため、目薬の中にごくわずかの水銀を入れた雲切目薬は目の梅毒の特効薬として珍重されたのではないでしょうか? 石のほとんどを占める亜鉛のほうはもともとの原料に混じってしまい問題ありません。 だからそれが、代々店主にしか伝えられてこなかった「一子相伝」の秘伝の石という訳です。
水銀は今ではその毒性のために医薬品に入れられることはなくなってしまいました。もしかしたら祖母は入れていたかもしれませんが、母は入れていなかったと思います。 考えてみると茶封筒の一子相伝の後に書いてあった「シンジュ」という言葉は水銀化合物を意味する「シンシャ辰砂」のことだったのかもしれません。
地元SBCテレビ(信越放送)では雲切目薬を特に良く取り上げて下さいます。
今回は長野市と松本市それぞれの名店を林家三平さんが訪ね歩くという企画で、長野市では笠原十兵衛薬局も取り上げて頂きました。テレビ局の方が「長野(市)といったら雲切目薬を取り上げないわけにはいかないでしょう。」と言ってくださったのが嬉しかった!
何しろ10年前は誰も知る人の居ない売れない目薬で、会計士さんからは「薬局閉めちゃったほうがいいんじゃないですか?」と言われる有様でしたから・・・。(^^;;
実は九子にとって三平さんはそんなに憧れる人でもないし(ごめん!三平さん!)、これがキムタクが来るとかだったら別だけど(^^;;、礼儀正しいまじめな青年が来て下さったという印象で平常心でおりましたが、最後のほうで大きなマスクで顔の大部分を隠しても唯一出ている目の美しさだけで只者でなさをすぐに感じるその人が来て下さった方がずっと心踊りました!
そう。当時週刊誌ではもう別れたとも報じられていた国分佐智子さんです。その日は東北大震災から一週間後。まだ東京でも余震がたびたびあった頃だったので、佐智子さんが不安がって急遽おしのびで取材に付いていらしたそうなのです。
佐智子さんとはほとんどお話しする暇もありませんでしたが、とにかく目だけで「すっ、すごい美人!」とわかるというのは並大抵ではありません。女優オーラというのでしょうね。
それから半年ほどして、実は実は安住紳一郎さんの「ぴったんこカンカン」のスタッフの方も来店して下さったのです。好感触だったのですが、小川村のおやきの取材で手一杯になって「今回はすみません。」という電話が来ました。残念!
林家三平さんの色紙を見て雲切目薬を買ってくださる方もいらっしゃるし、そんなお礼も込めてお手紙やら地元の果物やらをお送りするとそのたびにご丁寧なお心遣い頂いてびっくりします。
地元のぶどうを差し上げた時は、ご婚礼の引き出物のおすそ分けに預かりましたし、リンゴの時は三平さん直々にお礼のお電話を頂戴しました。 賢婦人で名高い母上様から乱れ一つない達筆でお手紙を頂戴したこともあります。
芸能界に詳しい方の口から、「林家一門は芸能界でも特別に義理堅い。」と伺ったことがありますが、こうやって直々に人と人とのつながりを大事にする姿勢を学ばせて頂けるのは光栄だったと思います。
来て下さったのがキムタクじゃなくて、安住さんじゃなくて、林家三平さんだったこと、感謝しています。
( ^-^)
賀状の通り、息子三人は三人三様の道を歩いております。
娘たちは試験に追われて大変です。
「この次いつ全員で会えるかわからないから、みんなで写真でも撮ろうか。」
と言いながら、結局いつも撮れずじまいです。
こうしてみると、子供たちと一緒に居られる間というのはわずか18年だけです。(都会だと22年でしょうか。)
最初からそれを考えて子育てが出来たら良かったけれど、後から気づいても遅いよって話です。
子供たちとはいつでも話が出来るという考え方は甘いのかもしれません。
今からまだ間に合うお父様お母様がた、どうかお子様が手元においでのうちにじっくりお話しておいてくださいね。( ^-^)
では皆様、今年もよろしくお願い申しあげます。 m(_)m
★長野県にお住まいの方々にお知らせです。1月 6日(金)SBCテレビ「3時はららら」で雲切目薬が放映されます。今回は芸人さんのX-GUN 西尾さんが来て下さいます。よかったらご覧下さい。
信じるということ [<坐禅、仏教、お寺の話>]
そのおじさんは、静岡県から笠原十兵衛薬局へやって来たと言った。車で4時間もかけて・・。
静岡県は長野県のすぐ隣なのだが、道路が整備されていないため郵便でもなんでも着くのに時間がかかる。
ところでこのおじさんという言葉、使う人の年齢によって対象の年齢層に幅が在ることに近頃九子は気がついた。
たとえば二十歳の女の子が使えば30歳以上くらいの男性をさす。
かく言う九子が使えば、どう考えてもおじいさんと呼ばれるような人。
ちなみに九子の言うおじいさんは、棺桶に半分足突っ込んでるような人だ。(^^;;
とにかくそのおじさんは、もう何度も雲切目薬を買いに来て下さっているらしい。(人の顔を覚えられない九子は、 あら、まっ!と思っている。(^^;;)
おじさんは関西弁とおぼしき言葉をしゃべった。
「関西の方ですか?」と九子は聞いた。
おじさんは静岡県から来たけれど、生まれは名古屋なのだと言う。
なるほど!静岡に移って何年経つのか知らないけれど、言われてみればおじさんの言葉は八丁味噌みたいに名古屋そのものだった。
おじさんは年に二、三度は必ず長野に来るのだと言う。その度に雲切目薬を買って下さるのだと言う。
「いやあ、女房がね、こっちにおるんですわ。」と言って、おじさんは善光寺の方向を指さす。
「ああ、近くにお住まいなんですね。」と九子。
「いんや。こんなに小さい壷ん中はいっちょっとです。」
善光寺の裏山、長野市内を見渡すところには納骨堂があり、春は桜が、秋は紅葉が死者たちの霊を慰める。
誰に話すともなく、おじさんは続ける。
「いやあ、わしゃあ大ばかもんなんですわ。あんないい女房を殺しちまって。わしが殺したんですわ、ひもで首しめて・・。」
「えっ?まさか・・。」
「いや、近所の人はみんな言っちょる。おまえは日本一の大ばか者じゃて。あんないい奥さんに苦労かけて、結局殺しちまったって・・・。」
おじさんは、自分が奥さんに苦労をかけて悲しませて、真綿で首をしめるように奥さんを苦しめて殺してしまったと言いたかったのだと思う。奥さんが亡くなったのは5年前だそうだ。
どういうご縁でか知らないがおじさんは善光寺の納骨堂に奥さんの骨を納めて、きっと命日と春秋のお彼岸にはきちんきちんと車を飛ばして4時間かけて長野にやって来るのだ。
なんだか九子は胸が熱くなった。
「おじさん、おじさんの思いはきっと奥さんに伝わってますとも。そうやってまじめにご供養されてるんだもの。」
口に出しては言えなかったが、おじさんにそう伝えてあげたかった。
すっかり気分が良くなった九子は雲切目薬8個ごとにプレゼントするおまけの百草丸を7個目でおじさんにあげた。(ケチッ!!(^^;;)
おじさんがそれでも嬉しそうな顔で帰って行ってしばらくしてから、九子はハッとした。
おじさんの話をすっかり他人事みたいに聞いていた九子だったが、九子だって何回生まれ変わっても恩返し出来ないほど世話になった出来すぎ母にひどいことをした。おじさんは奥さんをきちんと供養しているけれど、九子なんかお墓や善光寺のすぐそばに住んでいながら御無沙汰ばかりしている。おじさんの方が九子よりよっぽどましかもしれない。
出来すぎ母が亡くなった時、九子はどうしようもなく落ち込んでいた。
母が亡くなって悲しいのはもちろんだけれど、親孝行どころか、母の死を早めるようなことをした自分がどう考えても赦せなかった。
辛くて辛くて仕方が無くて、何をしたかというと活禅寺で母の法要をしてもらった。活禅寺はお葬式をしないお寺なのだけれど、その代わりに菩提寺がどこであっても頼みさえすれば活禅寺独特の法要をしてくれる。
菩提寺での七七忌の法要の日の朝、活禅寺で朝6時から1時間の法要を頼んだ。
その法要で、九子の心はとても楽になった。
なぜ楽になったのか?それは母がその時、あの世と言われるところで幸せに暮らしていると確信できたからだ。微笑んでいる母の姿が見えたからだ。
残念ながら菩提寺の和尚さんのお経を聞いても、九子に母の姿は見えてこなかった。
それを錯覚と言われようが、迷信といわれようが、大事なのはもう二度と会えない大切な人が今どうしているのか、目に耳に心に訴えてくるものがあると言うこと。
正しかろうが間違いだろうが、確信を持ってそうだと語れるのであれば、それがその人にとっての真実なのだと思う。
だって結局誰もあの世のことなどわからないのだから・・。
九子のウツがひどかった頃の話だ。
ご存知の通り、うつ病には波がある。日替わりで気分が変わる。今日が楽でも明日はひどく落ち込むかもしれないし、誰も予測が立てられない。
一日のうちでも午前中が悪くて、午後4時頃になると楽になるとかいうリズムもある。
そんな中、友人に薦められた一冊の本が九子の気持ちを確実に明るくしてくれた。涙が出るほど嬉しかった!
これで明日には確実に元気になれると思った。(実際はいったん発症したうつ病はそんなことで治るほど甘いものではないのだが・・。)
それが飯田史彦著「生きがいの創造」だった。
キリスト教には輪廻転生という考え方が無いので、「生まれ変わり」という考え方はキューブラー・ロス博士 あたりが提唱しなければ出てこなかったはずだ。つまりそういう子供たちが居る事が「生まれ変わり」の何よりの証拠ということだ。
飯田氏によると、人間はもともと「あの世」にあるべき存在で、この世の姿は仮の姿であるそうだ。
今の世の中であなたの周りに居る配偶者や子供や両親や兄弟姉妹や友人や、先輩や同僚や大嫌いなヤツや、そういう人々はみんな必ず次の世の中でも自分の近くに生まれ変わって、お互いに影響を受けながら与えながら生き続けるのだという。
彼らは'soul mate'つまりは「魂の友人たち」と言われて、何度生まれ変わってもお互いに離れることはない。
そもそも私たちはこの世に宿題を解くために生まれてきたのだそうだ。
それぞれが前世で解き残したさまざまな宿題を抱えて、生まれる場所や親を自分で選んで生まれて来ると飯田氏は言う。
だから亡くなったと思っているあなたの大切な人は、今現在本来の居場所である「あの世」であなたを静かに待っている。そしてsoul mateたちが次々と自分の宿題を終わらせてまた「あの世」に帰ってくるのをじっと見守っている。
幼くして亡くなる人々も、それは自分の宿題をきちんと終えて亡くなって行くのだという。ちょっとこのあたりは信じるのに辛いものがありそうだが・・。
全員が揃ったところでこの次はいつ、どんな場所で生まれて、それぞれがどんな役割を演じようかと皆が相談するのだという。だからあなたの妻は前世ではあなたの父親だったかもしれないし、大嫌いなあの人も、実はそういう役割の、あなたの大切なsoul mateなのかもしれないのだ。
こういう風に考えられれば、少なくとも大切な人を亡くして悲しんでいる人はずいぶん気持ちが楽になると思う。
当時九子はうつ病の最中だったけれど、読んで涙が止まらなかった。久しぶりの嬉しい涙だった。
自分がうつ病という病気であると言う自覚はまだ無くて、医者に行ったり薬を飲む事も思いもつかず、頻繁に来る落ち込みの中で辛い毎日を送っていた。
だけど変だなあ。考えてみれば当時九子の両親はまだ二人とも年より若いと言われてピンピンしていた頃で、飯田先生の「生まれ変わり」の思想のどこが、憂鬱な九子の心を楽にしてくれたのだろうか?
たぶんそれは著書全体に流れる明るさというか、とにかく死のような忌まわしいものや嫌いな人とかいう否定的な事の中にもちゃんと意味があって、それは次の世に肯定的につながっていくという極めて楽観的な考え方が、八方ふさがりの心に灯をともしてくれたのかもしれない。
とにかく飯田史彦氏で特筆すべきことは、彼は宗教家でも宗教学者でもなくて、大学研究室に勤める科学者であり、宗教活動は一切していないということだ。
ところが以前大川隆法の「幸福の科学」本を頂いて、読んだ途端にびっくりしたことがあった。そこに書いてあったことが、飯田史彦先生の言ってたことと良く似ていたからだ。
「幸福の科学」本は一時古本屋に結構高く引きとってもらえたので、もらったそばから売ってしまって(^^;;なんというタイトルの本だったのか明言できないのが残念なのだが・・・。
要するに大切なのは「信」なのだ!!
「生きがいの創造」は著者が何度も書き直して現在は最新版が出ているそうだが、多くの賞賛のコメントとともに、少数だが否定的なコメントも散見される。
大雑把に言うと、肯定的コメントはこの本を信じた人からのものであり、否定的なコメントはこの本を信じられなかった人からのものだ。もちろんこの本を信じられるか信じられないかは、その人の環境や生い立ちやその他もろもろの影響が加わる。
考えてみると日常生活の中で「信」が問われる事は毎日のようにある。いや、毎日何度となくある。
上司を、先輩を、先生を、友人を、交渉先を、親を、兄弟を、子供を、そして一番大切な「自信」に通ずる自分をどこまで信じられるかという問題。
何かを選択する際には、必ず何かを信じて選択していると思う。つまり判断する時には、必ず「信」がついてまわる。
活禅寺の無形大師は「信は万法の母」という言葉で信じる事の大切さを説かれた。
「信じるものは救われる」とか「イワシの頭も信心」とか言われるけれど、とにかく信じなければ宗教は成り立たない。
九子なんかはいつもいつも仏様に守られているという自覚があって、そのくせこの頃あんまりお寺に行かないのを申し訳なく思っているのだけれど、それでも子供の帰りが遅かったり、M氏からなかなか電話がなかったりするとその度に不安になったものだった。
考えてみると不安だったり、びくびくしたり、おどおどしたり、そういう時は必ず「信」がぐらついている。
九子の場合どんな時でも仏様を「信じきる」ことが出来れば、心配事がおきるはずが無い。
何の宗教にも属していないあなたでも、あなたに心配かけてるその人への「信」が怪しくなるから心配になるのではないだろうか? その人を「信じきる」ことが出来ないから「あの人なら絶対大丈夫!」ではなくて、「何かあったらどうしよう?」と考えるのじゃないかな?
あのおじさんだって善光寺の納骨堂へ行けば奥さんの供養になるし、奥さんに会えると信じてるから4時間の道をわざわざみえるんだと思う。
「信」というのはきわめて個人的なものだ。正しい信も、正しくない信も無いのだと思う。
自分が信じるか、信じないかというその一点にかかっている。比較も評価も値しない。
日本が自信を失っていると言われて久しいけれど、日本人の一人一人がもう少し自信を持てるようになるときっとこの国も変わっていくと思う。
自信とは、自分自身を信じること!どんな状況でも自分を最後まで信じきれること!他人がなんと言おうとも、自分が自分をすごい!自分なら出来る!と思うこと。
難しいなあと思う人は、是非坐禅を始めてみてくださいね。
坐禅をすると、自分が本来生まれもっている力の大きさを確認することが出来ます。仏様と同じだけの力を持った自分を感じることが出来るのです!
大いなる力に庇護してもらうだけならどんな宗教でも同じことだと思うけれど、坐禅だけがあなたが気づかないでいるあなたの中の偉大な力に気づかせてくれます。
なあんも出来ない九子でも、少しは自信がつきましたよ!( ^-^)
「神の手」の反論 [<九子の万華鏡>]
今回の日記はほとんどが医療従事者専門サイトm3.com編集部「失敗の研究」と題された連載記事の第一弾、福島孝徳氏独占取材記事からの抜粋であることをご報告しておきます。
「神の手」を持つ、あの福島孝徳先生が訴えられたというニュースに驚いたのは今年の春ごろだっただろうか。
ネットにも
「脳神経外科医、福島医師が、左右の脳を間違えて正常な脳の細胞を摘出されることが遺族からすれば考えられないことだと思います。」
「正常な脳細胞と腫瘍のある脳細胞は長年腫瘍手術を経験しているので、なにかおかしいと思うが、そのまま左右の脳を間違えたまま正常な脳組織を摘出する事が考えられません。
正常な脳組織を摘出されて女性が全身マヒで寝たっきり状態で最後は死亡、あわれです。」
などという批判が連日踊ったようだ。
当時なぜかあんまり新聞記事やネット記事を穴の開くほど見ようとしなかった九子であるが、最近見つけた福島先生の反論とも言える独占取材の記事には興味をそそられた。
まずは事故の背景だけれど、患者は30代の女性。病名は神経膠腫という癌の一種。
神経膠腫はグレード1から4までの4段階に分類でき、グレード1、2であれば、5年生存率は90%近くなのに対して、グレード4の悪性となれば余命は1年足らずなのだそうだ。
福島氏は原則として、予後改善が認められないとの理由で悪性腫瘍の摘出手術には応じていないという。
良性腫瘍が脳を圧迫していて、抑圧された機能が手術で取り除かれる事により元通りになるような事例を積極的に扱っているのだという。
その上さらなる問題は、女性の神経膠腫が視床で発生した点だった。視床は卵が左右に並んだ形でくっついており、幅20mm程度の脳深部組織。体性感覚、視覚、聴覚、痛覚などの感覚情報を大脳皮質に送る中継の役割を果たしていて生命活動への影響が大きく、摘出することは不可能だ。
だから女性から最初の手術要請の手紙が来た時に福島氏は手術を断っている。
ところがその後も再三女性の手紙は届いた。その上彼女の担当の脳外科医からも手術の以来を受けた。
福島氏はついに手術の依頼を受けることにする。
何より彼女の腫瘍はグレード1であるとの報告を受けたからだ。
MRI画像上、腫瘍のサイズは3cmと大きくなっていたものの、生検組織から「毛様細胞性グレード1」と診断されていて、視床そのものは切除できなくとも、視床から突出した腫瘍細胞を部分切除できれば他の組織への拡大を阻止できる可能性があると福島氏は踏んだ。
ところがここに最大の問題があった。
実は同じ生検の組織で、手術前に病理診断は2回なされていた。
1回目はグレード1の毛様細胞性、2回目の診断はグレード2あるいは3以上の悪性となっていたのに、福島氏には1回目の診断しか伝えられていなかったのだ。
つまり紹介元の病院では、悪性腫瘍のグレードは氏が術前に知らされていたよりも高いと、術前の段階で分かっていた。神経膠腫はグレード1を超えていた。福島氏は手術後になって初めて知らされた。
グレードが高ければ、福島氏は手術を引き受けなかったはずだ。手術をしても死亡を避けられないからだ。
もう一つ、今回の事故では特筆すべき問題がある。
福島氏はふだんの手術では、専用の顕微鏡をのぞき、わずか幅1cmほどの進入孔から頭蓋内の病巣を探る。
手術助手とやり取りしながら、福島氏が考案した大小様々、約300種類の手術器具を頻回に取り替えていく。
コンピュータを使ったナビゲーションシステムの画面で、今どこを切除、剥離しているかが分かる。術野の拡大像も手術室の幾つものモニターに映し出されている。
ナビゲーションシステムは福島氏の脳外科手術に欠かせない。手術ミスを回避する観点からも重要な「精密機器」である。
しかし今回は、この手術の生命線ともいうべきこれらの機器がなかった──。
つまり手術自体がまったく初めての病院でまったく初めてのチームとの共同作業だった。
ナビゲーションシステムは高価で3000万円もするものなので、それを整備して欲しいとは言ったものの無いと言われれば仕方なかった。その上重要なエコーも揃えられていなかった。
用意すると約束されていたものが用意されていなかったとしても、すでに頭蓋骨を切り取られて脳を露出されて横たわっている患者をそのままにして手術を中止する訳にはいかなかった。
この開頭手術にしても病院の医師たちがこの病院のやり方でやっており、福島氏が要請していたやり方とは異質なものだった。
このポジショニングの違い、つまりは患者の頭の固定のされ方の違いが、百戦錬磨の福島の判断力を狂わせる一因になってしまう。
手術ミスの根幹と思われるところを福島氏自身の言葉で記す。
しかし、極めて判別しづらい状況がありました。
左の視床は以前に生検で組織を採取されていたのです。そのため左の視床は黄色に変色し、凝血塊が付着していました。
視床は右も左もよく似ています。神経膠腫はグレード1と進行度が低かったですから、神経膠腫とはいえ、見た目では正常組織と似ています。私は凝血塊と黄変から間違いなく右視床からの飛び出した組織と判断しました。凝血塊は突出した腫瘍に見えたのです。
私は小指頭大、わずか1cmから1.5cmの組織を切除し、終了しました。
今回の病院には術中の迅速病理診断をできる体制もありませんでした。病理組織で確認することもできませんでした。
術後に頭部の回旋がわずかに違っていたと分かりました。術後、患者には回復可能であるものの右半身麻痺が生じていました。それにより、切除部の判別に不備があったと判明したのです。
私は患者側に手術の直後に切除部の特定に不備があったと説明し、謝罪しました。軸のずれがあり腫瘍に到達できなかったと話しました。病院内部の問題であった「ポジショニングの誤り」「ナビゲーションシステムを使えなかった」といった言い訳はしませんでした。
今回の切除部の特定不備により、手術で組む主治医との国際的連携をより充実させるべきとの教訓を得ました
一方の患者側は、神経膠腫であっても右視床の病変を全摘していれば、予後延長したと主張しました。腫瘍の悪化や死亡は防げたのではないかと言います。
私は繰り返し、「視床本体の腫瘍は切除不可能の部分である」「グレード3、4の悪性膠腫の場合、手術で一部視床から飛び出した部分を切除したとしても生命予後は変わらない」と説明しました。ですが、ご理解は得られなかったようです。
福島氏の反論が事実であれば、福島氏自身よりも先に、福島氏が乞われて執刀した病院の責任がより重いと思う。
患者の病態を偽って福島氏に手術をさせ、また福島氏との約束を反故にして用意すべき機器を備えずに、神の手に間違いを犯させたのだから・・。
また1億円を越すと言う法外な請求額も、30代の女性患者が65歳まで生きると仮定してなされたものだと言う。神経膠腫の予後が果たしてそこまであるものなのか。
突然何を言い出すかと叱られそうだけれど、九子の愛すべきM氏は( ^-^)、愛すべき典型的な日本人である。
そしてまじめで良心的なワーキングプアーな歯医者である。
腰が低いと評判の彼であっても、患者さんとのトラブルが皆無であったわけではない。
彼は思いのほか頑固であるので、トラブルが起きる時には必ず、必要な何かがなされていないのだと、いつになくきっぱりと言い張る。
何かとはなんぞや?それは患者さんの心のケアーだそうだ。
何かあった直後に、こちらが悪かろうと悪くなかろうと、誠意を尽くして患者さんの心を思いやってあげれば、少なくとも訴えられたりまですることは決してないと言う。
まあ、それはわかるよ。でもそれを世界の福島先生の問題といっしょに語っちゃっていいのかしらねえ。(^^;;
この記事は実は連載三回分なのだけれど、福島氏の言葉の最後の部分を以下に記す。
私は臨床の実力を問わない日本の医療界に満足できず1991年に渡米しました。これまでに2万2000件を超える脳神経外科手術を重ねてきました。独自の手術器具を駆使し、世界で最初の顕微鏡下鍵穴手術による脳神経外科治療を手掛けてきました。これまでも、これからも日本の臨床医のレベルの底上げに尽力したいと考えています。
脳神経外科はチーム医療を行いつつも、指導医と術者の手技の影響を受けやすいものです。個人の技術向上がほかの外科領域よりも大切になります。ですから「チーム福島」の弟子らをあと5年ほどで一人前にしたいと本気で考えています。スポーツに例えると脳神経外科はゴルフ。個人の技量を高めるのは欠かせません。胸部外科、移植外科などのほかの外科は、よりバスケットボールのようなチーム色が濃いと思います。
理由のない批判や不当提訴があると、難手術を引き受ける医師はいなくなります。不当な理由で訴訟が起こされる事態があるとすれば問題です。過大な請求が横行すれば、外科医は萎縮するでしょう。
私の実年齢は68歳ですが、生理的な年齢は48歳と思っています。手術の技術と実年齢はかかわりありません。
今でも体力、気力は充実しており、現在も世界で手術を連日引き受けています。世界の医療格差を乗り越えて頑張ってきました。
今回の経験により、条件がそろわなければ手術を実施しないと決めました。正しいポジショニング、正しいオープニング。さらにナビゲーションシステム利用の大切さを改めて痛感しています。今回私が得た教訓です。
最後の一文が示す通り、この事件により福島氏はこれからの手術の方針を変更せざるを得なくなった。
いわば無条件に手術に応じていたものに条件をつけることになった訳だ。
こういうことが、つまりは福島氏の神の手を包帯で締め付けるようなことが一番慎むべきことだと思う。
福島孝徳公式ホームページには"The last hope"の文字がある。
まさにたくさんの医療機関を渡り歩いてもうこれ以上打つ手は無いと言われた患者たちにとって、福島先生は藁をも掴む気持ちでたどり着いた最後の望みなのだ。
福島先生がこれからも多くの患者たちの希望の光であり続けるように祈る。
より詳しくは以下の記事をお読み下さい。
会員登録できない方は、下記のサイトに全文の抜粋がありますのでご覧下さい。
no.1 no.2 no.3困ってるひと・・・大野更紗 [<九子の読書ドラマ映画音楽日記>]
困ってる? お金に?仕事に?恋愛に?はたまたストーカーに?
とんでもない!彼女が困ってるのは、死ぬか生きるかの問題!彼女は難病女子である。
大野更紗女子(あえて女史ではなく女子と呼ぶ。)は、彼女がムーミン谷と呼ぶ福島県の原発から遠くない電車もバスも通らない山の中で生まれ、たぶん一人っ子で(違ってたらごめんなさい。)、共稼ぎの両親の下、じっち、ばっぱやひいおばあちゃん、近所の「子育ておばさん」に預けられ、物心ついてからは野山に放り出され、野草や筍、栗などを食し、裏の秘密基地(おお!なんと麗しい響き!)を駆けずり回り、川で泳いだ少女時代!
子育て時代の九子だったら、なんて理想的な育ち方!と目をうるうるさせて羨ましがるようなたくましい戦前の日本人の育ち方をした少女だ。いや、はっきり言ってしまえば、九子の出来すぎ母が育った状況と酷似していた。
出来すぎ母の場合は、男の子と一緒になって信州稲荷山の野山を走りまわっていたのであるが・・・。
九子はもうこれを聞いただけで、その後の彼女の決して枯れる事の無いエネルギーを予感し得た。
出来すぎ母が少なくとも亡くなる一年前、自由に自分の足で歩けていた頃までは、尽きせぬエネルギーをみなぎらせていたのを知っていたからだ。
大野女子は成績優秀で、村からただ一人、県下指折りの進学高に進む。そこで規律に反発し、制服を改良し、白ソックスを黒タイツに履き替え、金髪、フルメイクに至るまで、若さゆえのちっぽけな反抗を企てる。
一浪後、ワセダもケイオウも蹴っとばして上智大学外国語学部フランス語学科に入学。クラスのほとんどが帰国子女か高校で第二外国語としてフランス語を取っていたかのどちらかで、フランス語の基礎をある程度身に付けていた生徒ばかりだったから、まるっきり最初からの彼女はかなり苦労したらしい。留年組も多かったそうだ。
いつの頃からか彼女は、「とりすまして似合わないわらじの足に無理やりハイヒールをはかせるような」フランス語の授業に違和感を覚え始める。
同時に、おっかけをしていた教授の著書からアジア難民の人権に目が向くようになり、ビルマ難民の人々と知り合い、普通に暮らしていながら投獄され、拷問を受け、難民として日本で暮らさざるを得ない悲惨な状況の彼らを招いて講演会を開く事に奔走する。
いつのまにか彼女の生活は集会、NGO活動、難民認定裁判の傍聴、国会議員のへのロビイングでなどなどで埋め尽くされ、実際にタイ、ビルマに出向く日々も増えて、多忙を極める。
彼女の生活は「限界」に達しつつあった。
大学院に進んだ夏、ついに病魔が牙を剥く。
最初は両腕に出来た内出血のようなしこりと赤い発疹。そのうち痛みがどんどん増して、布団から起き上がれなくなる。全身の力が入らず、身体中が真っ赤なゴム風船みたいにパンパンに腫れる。触るだけで痛い。
関節ががっちがちに固まってぜんぜん曲がらない。これだけでも大変なのに、38度の発熱がどんな市販薬を飲んでも下がらない。
こんな状況下だったら、九子は毎日寝てる事しか出来ない。自分の不運を呪い、仏様に恨みつらみのありったけを言って(^^;;、わんわん泣きわめく。そんな事しか思いつかない。
ところが大野女子は違った。
たらい回しにされるばかりで診断一つ杳(よう)としてつかない日本の病院に愛想を尽かし、愛すべきタイにもう一度渡る。(タイービルマ国境に難民キャンプがあり、タイ経由で行くのが一番楽であるらしい。)熱は38度近く、手が腫れて、スーツケースを自分で持てなかったにもかかわらず・・。
結局体調の悪化は彼女の夢を余儀なく中断させ、彼女は日本に帰らざるをえなかった。
だがその時の彼女と言えば、抗癌剤を飲んでる訳でもないのにごっそり抜ける髪の毛、口の中は潰瘍だらけで辛いものは一切受け付けず、指もどこもかしこも潰瘍で、何も持てない。
手足の関節を少しでも曲げようとすると激痛に襲われるが、他人にはいっさい痛みを訴えずに我慢する。そして動くと出る39度の熱をタイの病院でもらった強い洋薬で紛らわす。まさに満身創痍だった。
飛行機に載るのもままならずに車いすのお世話になり、空港からはお年寄り用の杖にすがって病院まで直行!ところが前にも診てくれた医者は、「安静にしていれば、よくなります。」の一言!
ああ、難病ってこういうものか!
結局、麻酔も無しに筋肉を2時間も切り刻まれるなど、非人間的な拷問のような検査を経て、一年もかかってわかった彼女の病名はふたつ。<皮膚筋炎>と<筋膜炎脂肪織炎症候群>=FASCIITIS-PANNICULITIS SYNDROMEの併発なのだそう。両方とも自己免疫疾患と呼ばれる、自分の身体を敵とみなして自分の免疫が攻撃するというタイプの難病だ。
「お尻事件」などという信じられない悲惨な出来事もあった。
なんだかんだで話題になるステロイド。これは強力に免疫を抑制する薬だから、毎日ものすごい量(ふつうはプレドニン5MGくらいのところをを、60MGくらい飲む。)を一生飲み続ける。当然副作用もきついが、背に腹はかえられない。
大野女子はステロイドを飲まねばならなくなった時、決意した事があるのだそうだ。自分の中の恋愛感情を司る部分を永遠に封印すると・・・。誰かを好きになっても自分が傷つくだけだから・・・。
でも彼女は一番信じていた医師の裏切り・・と彼女は言うが、要するに不用意な発言で傷つけられるという彼女にとっては耐え難い苦難の時、もう生きる気力をすべて無くして死を選ぼうとしたまさにその時、「あの人」の存在によって死の縁から救われる。
「あの人」とは、同じ難病病棟にいる背の高いおにいさんだ。
彼のおかげで生きる希望を無くしていた女子は、一夜にして180度の大変化で俄然生きたくなる。
こういう展開、いいなあ。( ^-^)
でも二人の前途は多難だ。いつ何時、どちらかが突然死んでしまう危険といつも隣り合わせだ。
彼女は9ヶ月の病院生活の後、病院を出て一人住まいを決意する。そこに至るにはさまざまな行政の壁が横たわっていた。いわゆる書類に継ぐ書類の山と、移転先毎に異なる書類を書かねばならない行政の非効率。
でもすべての壁をどうやらこうやらうち破り、難関の引っ越しも友人家族や「あの人」の協力でなんとか乗り越え、彼女は病院に来た時と同じくたった一人で、病院のドアを外の世界に向かって歩き出す。
2年前、健康だった彼女の靴音はコツコツ、ガンガン、ガツガツというものだったが、当時は他人の痛みなどまったく理解できなかったと彼女は言う。
だが今は、杖のコツッという音のあとに続くズルッという自分の身体をひきずる音。歩く時はその繰り返し。
病状から言って、彼女の靴音が元どおりに戻る可能性は極めて低そうだ。
だけど彼女は言う。
「今は少しだけわかるよ。ひとが生きる事の、軽さも、重さも、弱さも、おかしさも。」
ここからが、すべてのはじまり。
さあ、生きよう。語ろう。
ああ、九子の拙い要約じゃあ残念ながら伝わらなかったと思うけど、大野更紗さんの勇気、少しはわかって頂けたでしょうか?わかって下さった奇特な方も、わからなかったとおっしゃるアタリマエな方も、どうか「困ってるひと」をぜひ一度実際にじっくりとお読み下さい。
アマゾンの書評を読むと、文体が軽すぎて合わないとか批判めいた意見も確かにある。
批判してる人が全てそうであるという訳では決してないが、精神的に弱く生まれついた九子のような人間からすれば、どんなに身体がデコボコに傷ついていようが、太陽みたいに明るく自分の病気を笑い飛ばしてしまえる大野女子の精神の強さは、憧れを通り越して怖さすら覚える。
身体の至るところが痛んで熱が下がらないんだよ。その上肩に2トントラックのっけたような倦怠感だそうだ。
九子なんぞ、りんごの皮ひとつ剥くのにナイフで指の皮まで切り(何年主婦やってんの?(^^;;)、痛い痛いと大騒ぎをして二日くらいは動かし惜しみをする。
37度の熱が出れば喜んで布団にもぐり込み、ウツでだるいと言っては一日中寝ている。
この人間としての落差は何よ!(^^;;
自分には決して到達できないであろう精神の高みに立ってしまった人への羨望とか嫉妬とかのネガティヴな感情があることはよくわかる。九子もかつて、自分の嫌らしさにヘドが出た。過去形で人事みたいに書いたけど、坐禅を知って少しはましになったとは言え、自分だけがおいてけぼりをくらったような苦い敗北感があるんだよね。
ましてや彼女は若くて美形でインテリだ。さぞや大学時代はもてただろうと思う。勝ち組だった人へのやっかみも若干混入する。
ただ、最後まで読めば彼女が病院を出て一人住まいを始めた6月のあの日のような太陽の暖かみをほのぼのと感じる事が出来ると思うんだ。
身体のどこにも、痛みも腫れもだるさも辛さも無くて、フツーに生きていられるってことがなんてありがたい事なのかを・・。
そして、自分も彼女に負けないように頑張らなくっちゃって。
あっ、ウツ病持ってる人は頑張らなくていいですよ。( ^-^)
岩崎宏美 虹・・singer [<九子の読書ドラマ映画音楽日記>]
いつもおかしいなあと思ってる事がある。
九子が若かりし頃に活躍してた歌手と呼ばれる人々。一例をあげれば郷ひろみ、松田聖子、岩崎宏美、布施明、沢田研二、中森明菜、近藤真彦、などなど。
平井堅やポルノグラフィティのライブに行く時は何ら恥じる事無く周囲に吹聴出来るけれど、なぜか昭和の匂いの色濃い彼らのコンサート(ライブではなく)に行くと言う事を誰かに伝える時、なぜ一沫の恥ずかしさが漂うのだろう?
もちろん九子だけかもしれないのだが・・。
歌手あるいは歌い手という言葉。シンガーというのともまた違う。
昭和という時代、歌手はみんな作詞家先生や作曲家先生に曲を書いてもらい、プロデューサーという人々の言うなりに歌い、振り付け師に教えられて手足を動かして踊り、まるで自らの意志を無くした操り人形のようだった。
もちろん自分なりの表現をプラスする自由はあっただろうが、許される範囲はそんなに大きくは無かったと思う。
今はシンガー=ソングライターが当たり前になり、自分の歌を自分でプロデュースする人々の方が増えて、歌手はアーティストと呼ばれ、自由自在に自分の世界を表現出来るようになったのだから大きな進歩だ。
アーティストと呼ばれるようになった歌手たちは、誰かに操られる事なく自分の意志のままに歌える。
昔はそういう不自由さがあったという事実とはまた別に、歌手とか芝居とか、もっと言ってしまえばサーカスなどの曲芸とか、そういう演芸一般に対する差別と言うか、要するに「見せ物」として括られて、それを生業(なりわい)とする人々を低く見るというような、そんな風土が昭和以前の日本にはあったように思う。
要するに貧しい家の親たちが女の子を郭(くるわ)に売ったりした時代からさかのぼって、郭がなくなり、サーカスがそれに取って変わり、要するに人に芸を見せる仕事は、ある時期貧しい家の子供たちの行きつく先という印象があった。
九子なんかも小さい頃叱られた時に「悪い事をするとサーカスに売ってしまうよ。」みたいな事を言われた記憶があり、シルクドソレイユなんかがどんなに華やかで優美なショーを見せていても、どこかに一沫の哀愁を感じてしまったりする。
一番忙しかった頃のピンクレディーの思い出話なんか聞いても、いかにして歌手と言う使い捨て商品を旬のうちに売り切ってしまうかという業界の思惑が垣間見られて、ひどく気の毒に思ったものだ。
まあ、そんな事が影響してるのかどうか、松本に岩崎宏美が来ると聞いた時、どうしても行きたいと思った訳ではなかった。やっぱりポイントは格安な値段かな。(^^;;
ただ、テレビでたまに流れてくる郷ひろみや松田聖子ちゃんの歌声は後押しになった。
つまり何十年間も第一線で歌いつづけている彼らの声が、年月と共に深みや艶、そして声量までもを増しており、それならば当時若手一番の歌唱力で定評のあった岩崎宏美なら、きっと凄い歌を聞かせてくれるのではないかと思った訳だ。
九子の予想は的中した!
「思秋期」に始まり、「聖母(マドンナ)たちのララバイ」で終わった2時間は、九子が思った以上に豊かなものだった。
実は九子はしばらく前に松任谷由実のコンサートを見に行った。例によってYさんが誘って下さった。( ^-^)
こじんまりとした舞台の上に昭和60年代みたいなファッションを身に付けて歌うユーミンはあの日のままだった。
そう言えばユーミンには「あの日に帰りたい」という名曲があったけれど、会場は年を重ねた往年のファンがほとんどで、一人ちっとも変わっていないように見えるユーミンのあの頃と変わらぬ歌を聞きながら、若かりしあの日に帰る事が出来てとっても幸せだった。
だから、岩崎宏美にもまずはそれを期待した。
ただ九子の場合、ユーミンの全盛期の頃がちょうと甘く切ない青春の頃に当たっていて、ユーミンの歌を聴くとまるで額縁に彩られた一枚の絵のように鮮明に思い出す一場面があるのだが、残念ながら岩崎宏美の歌と重なる甘酸っぱい思い出はあんまり無い。(^^;;
岩崎宏美は進化していた。彼女自身には二十歳をはさんで二人の息子さんがいて、数年前に再婚もしている。折りしも妹の良美さんが産婦人科医と結婚されるというおめでたいニュースの最中でもあった。
人生経験を積むと歌に幅が出ると良く言われるが、岩崎宏美の場合、もともと美しかった声にさらに魅力が加わった。とにかくはっきりと声量が増したのだ。
彼女が何年か前に声帯ポリープの手術をした時、友人のさだまさしは「宏美ちゃんみたいな発声していてポリープが出来るはずがないんだがなあ。」と言ったそうだ。
確かにのどに無理な力が加わったような歌声ではない。のどからポンと空中に投げ出された音が腹式呼吸によって増幅されて、聴衆の耳元でぱちんと弾ける花火になる。
その花火の麗しさにみんな息を飲んだ。
コンサートのタイトルにもなった「虹・・Singer・・」は彼女がこれからずっと歌い継ぎたいと言うさだまさしの楽曲で、歌を歌うという使命を背負った自分への、そして自分の歌を聞いて元気になって欲しい聴衆への応援歌になっている。
そこにはかつて歌手と言われ、上から言われた通りに歌うよりなかった岩崎宏美の姿は無い。
まさにsinger=artistアーティストであり、歌という芸術を極めて、苦難にある人を一人でも多く勇気づけたいという大きな夢を抱く夢追い人の姿があるばかりだ。
聴衆はみごとに熟年だらけだった。それから下もそれから上もほとんど居ない。岩崎宏美と一緒の時間人生を歩んで、子供も成人して家を出て、夫婦二人の時間が出来たから、どちらかに誘われてここへ来たという二人連れがほとんどだった。
もちろん九子もM氏と一緒だった。
割れんばかりの拍手を浴びてアンコール曲を歌う岩崎宏美の姿が見えなくなり、皆が立ちあがり、九子が「ああ、今日来て良かった!」と熱い思いで胸がいっぱいだった時、M氏が言った。
「いつでもざっと2割なんだよね。」
「えっ?なんの話?」
「俺さあ、いつもなんかの大会とかあるとさあ、観察するんだよね。すると大抵2割なんだよ。」
「だから何がよ!」
「座ってる一列の中ではげてる人の割合。」
「えっ?」(絶句)
(気を取り直して)案外少ないのねえ。男の人だけ数えてるの?」
「そうだよ。ちょっと薄い人や、ステッキ並べてるみたいな人や、つるつるの人まで含めて2割なんだよ。8割ははげてないんだよ。俺うらやましくてさあ。」
挙句の果てにM氏はこんな事まで言った。「岩崎宏美良かったけどさあ、俺、高橋真梨子の声の方が好きだなあ。」
素晴らしいコンサートで感無量の時に、はげの話や別の歌手の話をする人とは金輪際一緒に来たくなかったよ。(^^;;
美男子の死 [<九子の万華鏡>]
竹脇無我さんが亡くなった。
小脳出血だそうだ。
「花で囲まれた美しい君の写真を目の前にこうしてここに立っていてさえ、僕はまだ、君の姿を、人の間に探してしまう。」
ちょっと違ってるかもしれないけど、加藤剛さんの弔辞のこの一文が泣かせた。
竹脇無我さんを偲ぶ会でのことだ。
竹脇無我と言ってピンと来るのは熟年世代以上の方ばかりかもしれない。
やっぱり一番の当たり役は、加藤剛さんと組んだ「大岡越前」の赤ひげ医者榊原伊織役じゃなかったかな?
イケメン好きの九子は当時から目を付けていて(^^;;、彼の美しい顔を見るのを楽しみにしていた。
アナウンサーだったというお父様ゆずりの低い声も素敵だった。
美女好きだった森重久弥は、美男子の竹脇無我も大好きで、「無我ちゃん、無我ちゃん」と言って可愛がり、どんなに機嫌が悪くても無我ちゃんの顔を見ると機嫌が直ったのだそうだ。
竹脇無我は、何と言うか、そんなに芝居がうまい方じゃなかったと思う。
抑揚の少ないしゃべり方で、感情を抑えたと言うか、感情の起伏があんまり見えて来なかった。
だからダイコン役者と言われてしまう事もあった。
昔はイケメンすなわち美男子の事を二枚目と言ったけれど、二枚目役しかやってこなかった竹脇無我は、そのうち表舞台から消えてしまった。二枚目役というのには旬があるらしい。
ず~っと、ず~っと長い間、竹脇無我の姿を少なくともテレビの画面で見る事はなかった。
それが突然、うつ病から生還した経験を綴った本が売れてカムバックが実った。
「凄絶な生還~うつ病になって良かった」は読んだ事がないけれど、彼の場合は完治まで8年もかかっているからかなり深刻な症状だったのだろう。
お父様も若くして同じ病気で自死を選ばれてしまっている。
本の他に、全国各地から講演会にも呼ばれて忙しい日々を過ごし、来春の舞台の役も決まっていたのに、せっかくうつ病を克服したのに、脳の病気にやられるなんて哀しい。
ただ、彼はうつ状態を酒を浴びるように飲んで解消しようとしていたのだそうだ。
Mr.childrenの桜井君も酒好きで小脳梗塞を起こしたらしいし、実は九子の親戚にももともと酒好きで奥様に先立たれてから歯止めが効かなくなり、小脳梗塞を起こした人が居た。
もしかしたら酒が過ぎると、特に小脳に問題を起こしやすくなるのかなあ?
こう言ってはなんだけれど、竹脇無我は不器用な人だったのだと思う。
役と言えばいつもいつも美男子でかっこいい役しかしない。
お葬式でお嬢さんがおっしゃっていたけれど、彼は家の中でもかっこいいお父さんだったのだそうだ。
家の中って一番くつろげる場所だと思うのに、その家の中でもテレビドラマの中のようなかっこいいお父さんを演じなければならなかったとしたら、いや、そうするのが自分の勤めだと思い込んでいらしたとしたら、さぞかし窮屈な人生だったのではないかな?
もう少しかっこつけずに生きられたらよかったんじゃないのかな?
だけどそれを言うのは彼にとって酷なのかもしれない。
竹脇無我に美を、かっこ良さのみを求め続けたのは、他ならぬ九子たち視聴者であり観客たちだった訳だから・・。
特に昭和の時代は二枚目役と三枚目役ははっきりと区切られていて、二枚目役が三枚目役をしたり、三枚目が二枚目をするとか言うのはほとんど考えられない事だった。
そこ行くと今のほうが役者さんはずっと自由だ。
天下の二枚目高橋英樹はバラエティー番組の常連だし、モデル出身の阿部寛は、最初のうちこそダンディーな役ばかりだったらしいが、つかこうへいの影響を受けて喜劇に開眼し、シリアスなものからコメディーまで幅広く活躍している。
同じモデル出身のエロ男爵こと(^^;;沢村一樹も、小学生の頃からみんなの人気者だったお笑いの才能を生かして、先輩阿部寛の路線を目指しているらしい。
例によって薬局も暇になる九子のテレビの時間帯(って、いつも忙しいような言い方だけど(^^;;)、午後4時からのフジテレビ「結婚できない男」の再放送の阿部寛は最高だ。( ^-^)
「結婚できない男」は、きっと学習障害なり発達障害なりがあるんだと思う。
毎日規則正しい生活をして、趣味にも食事にもいろいろなこだわりを持ち、かばんの中や机の中は常に同じ物が同じ所に無いと落ち着かず、手は不器用でネクタイもうまく結べず、他人には理解できない独特のファッション感覚で、グサッと人の気持ちを傷つけるような事を平気で言ってしまい、周りの空気を読めない。
うんちくがたくさんあってそれをひけらかすものだから、まわりがみんな引いていく。
一人の世界を好み、クラシック音楽を大音量でかけては指揮者のまねごとをして一人悦に入る。
(もっとも彼は建築家と言う設定で、空間の概念などに長けているところは学習障害と少し違いそうな気もするが・・。)
「結婚できない男」が昭和の中年おじさんたちに人気があった化繊の入ったヨコシマの半袖のポロシャツにひざまでの半ズボンをはいて、長身をネアンデルタール人のようにかがめて歩く姿は、同じく長身で軽い学習障害のある我が三男Yの姿に似ていなくも無い。(^^;;
確か初回だったと思ったが、「結婚できない男」が腹痛で倒れて、独身女医の早坂先生に診察を受ける場面で、下半身丸裸で診察代の上に腹這いになり、お尻丸出しでカメラに写った時には、さすがに「阿部寛よ!そこまでするか!」といささかショックだった。(^^;;
阿部自身はつかこうへいの芝居でホモの男の役をして、男同士でキスをしてからというもの、すっかりふっきれたと言っていたのだけれど・・・。
若い時って、もうそれだけで美しい。
この頃になって九子はしみじみとそれを思うよ。(^^;;
若い上に見目麗しく生まれついた人は、周りからちやほやされて何をやってもほめそやされ、幸せな一時期を約束される。
ただ、それから20年、30年たった時、その人がそのまま幸せで居つづけられるかどうかはわからない。
昔は目立たなかったさもない人のほうが、付き合って面白い社会の実力者になっていたりする。
役者さんで見ても、佐藤浩市や竜雷太や時任三郎や、どっちかって言ったら醜男の方が、若い頃よりずっといい味出して格好良くなってるなあと思う。
美人や美男子は若い頃と変わらぬ美しさを保つ事に汲々とする。
だけど無常の世の中では、それは大変難しい事だ。
「美」というのは、遊びが無いと思う。
「美しい」という範疇は大変狭いので、ほんの少しそれがずれただけで人々は今まで「美しい」と崇めていた対象の美の衰えを敏感に感じ取る。
たとえば美人女優さんの一本のしわであったり、二枚目俳優の顔のたるみだったり・・・。
美しくある事を運命づけられちゃうと大変だよね。
結局無常に逆らって若い時のままに歳を重ねる事は無理なのだ。
そうであれば、美しさ以外のものを売り物にして行くほうが賢明だ。
そういう意味で阿部寛は賢かったと思う。
竹脇無我の場合は、ああいう時代だったから気の毒だった。
こうしてみると、人間の運不運というのはわりあいに平等であるようだ。
美形に生まれて若い時に輝いてた人は、老いるに従ってその美を失っていくという悲しみに合い、それなりの人はそれなりの若い時だったかもしれないが、数十年後の同級会で「おや、いつまでも若いね。」と言われたり、「この頃輝いてるね。」と言われる事があるかもしれない。
このあいだ本願時の大谷暢順さんも一番最後に言ってたよね、諸行無常は救いだって。
世の中あんまりいい事なかったよって思ってるあなた!
きっといい事はこれから来るんじゃないかな。( ^-^)
そこそこ幸せだったなって思ってるあなた!
悪い事しないで良い事だけするようにしてると幸せは長続きするみたいだよ。( ^-^)
そして美女でならした九子は、これからずっと時間に復讐されて、苦い人生を歩んでいくのだよ。
(えっ、え~~~???(^^;;(^^;;)










