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夢とうつつ [<九子の万華鏡>]

音をいくつ紡いだら、言葉になるのだろうか?

例の「現代のベートーベン」騒動のあいだ、九子はぼんやりとこんなことを考えていた。

音の紡ぎ方と言ってもいろいろある。単純な音階を長くつなげる電池の直列つなぎみたいな紡ぎ方(メロディーライン)もあるだろうし、交響曲のようにあらゆる楽器を総動員する並列つなぎもあるだろう。

もちろん紡ぎ方の上手下手でも異なるし、音だけですべての言葉を紡げる訳でもない。


ただ一音だけでは無理に違いないと言うことは、誰もが容易に理解する。
ド、ミ、ソというのは、ただの音でしかないのだから・・。

では音二つ、ドレ、ミファ、ソラと言ったらどうだろう。
それでもちょっと無理っぽい。

そんならミソ、ソラ、シミではどうか?
味噌、空、染み(なんだか美しくないなあ。(^^;;)

もちろんこれは単なる言葉遊びであり、音が表現するものとは全くの別物だ。

素人の九子が考えたことは、長い曲より短い曲、多い音より少ない音で言葉が表せたら、それは優秀な作曲家が紡いだ名曲ってことになるんじゃないの?と言うことだった。

「16小節のラブソング」と言う歌を、スタイリスティックスという裏声の美しい黒人コーラスグループが歌った。

「恋」という言葉は、16小節で伝わるのか!

それならば、「愛」は?それならば「夢」は? それならば「希望」は?


さっき一音では伝わらないと言ったけど、よく考えてみるとトランペットの一音で「哀愁」を伝えることが出来るし、バイオリンの一音で「悲哀」も表現できる。
楽器独自の音色が持つ味わいみたいなものがあるのかもしれない。

でもこういうことって、「思い込み」に支配されてる部分もかなりありそうだ。
「哀愁のトランペット」などという言葉がいつのまにか刷り込まれて、実際以上にトランペットの音を悲しく感じさせているかもしれない。
あなたの知性はそんな風に、感性に横滑りしてはいないだろうか?


結局のところ、音はいくつ紡ぐと言葉になるか?と言うのは愚問なのだ。

音の数が決めることではなくて、音の持つ味わいが決める。
もっと言ったら、聴き手個人の受け止め方によっても違うし、何より音を紡ぐ人々の思い入れの強さによって決まるもののようだ。


件の作曲家?さんのHIROSHIMAという曲を始めて聞いた時、九子はなんだかぞっとした。これは原爆のおぞましさも含めて、いい意味の「ぞっ!」だった。
九子はさっそく、第一楽章、第二楽章、第三楽章の順番に聞けるように、わざと第三楽章からyoutubeに曲を収めた。

九子の理解はこうだった。第一楽章は、のどかで平和な戦前の広島の風景そのもの。ところで第二楽章で突然悪魔の兵器が降って来る。人々は血みどろで逃げ惑い、地獄絵図が広がる。
とにかく第二楽章の不協和音の響きは、原爆と関連づけるにはぴったりのように聞こえた。

そして九子は思った。
「さすが被爆2世!DNAに残っているのかもしれない原爆の原風景が、彼にこの曲を書かせているんだわ!」

現代のベートーベンが作ったはずのHIROSHIMAは、九子の中でもう広島の原爆ドームそのものであり、人々のうめき声であり、60数年前の日本の悲劇の象徴としてしっかりと刻まれてしまった。
つまり九子の中で、HIROSHIMAという言葉が、これらの音たちで見事に紡がれた訳だ。

ところが本来の作曲者さんの証言によると、HIROSHIMAは、別のタイトルですでに発表されていた曲の焼き直しなのだそうだ。

HIROSHIMAという言葉を紡いだはずの音たちは、さぞや居心地が悪かろう。


考えてみるとクラシック音楽にはタイトルが無くてピアノ協奏曲何番とか、番号のみで表されているものが多い。
なまじ言葉でタイトルが付いてしまうと想像力が限定されてしまうからそうするのかと思ったが、もしかしたらこんな事件が昔もあったのかも知れず、そうなれば、なんの責任も無い音たちが
人間たちの勝手な解釈で傷つくのを防ぐため・・・だったんだろうか?

そして現代のベートーベン氏は、いつかは醒める夢の中に、どんなうつつを溶かし込んだというのだろう? 

 

事件が発覚する前の日曜日、九子はM氏と映画を見に行った。
 

 「かぐや姫の物語」伊閣蝶さんのブログを見て、是非とも行きたくなったのだ。
伊閣蝶さんは音楽一般、特にクラシック音楽に大変通じていらっしゃって、「かぐや姫の物語」の久石譲氏の音楽を褒めていらしたので、それも聴いてみたかった。

実は久石譲氏は長野市の隣、中野市の出身で、こんど新しく出来る長野市民会館の総監督に就任が決まっている。
これで長野も遅まきながら文化都市の仲間入りが出来るのかしら?


本当のところ、九子はジブリ映画は苦手である。
想像力というものが欠如している九子には、子供たちがわくわくするほど面白いと言う宮崎作品にあまり面白さを見出せないでいる。
もしかしたらそれは、九子がゲームに面白さを見出せないのと同じ理由なのではないかと思っている。

現実に無いものに面白みを見出せない・・とでも言うのかしら?
九子にとっては、現実と等身大の男や女たちの心の中を覗き込み、追体験する読書やドラマの方がより興味深いのだ。

ただ、かぐや姫の物語は誰もが知っているおとぎ話だからか、全く違和感無くすっと話に入って行けた。


アニメとは言いながら、どこか懐かしさを感じる昔ながらの日本の風景。潔いまでに単純化された線の艶っぽさ、そして色の美しさ。
すべては昔から語り伝えられたかぐや姫の物語だ。


ただ一つ問われるのは、かぐや姫が月から地上にやって来た意味。
彼女は、彼女の一念で地球にやって来たのだという。

平和そのもので、病も老いも死も苦しみも無い月の世界から、なぜ?


物語の最後、月からのお迎えが姫を連れに来る場面。
久石譲氏のなんとも不思議で印象的な音楽が流れる。


この音楽は多くの人の心を捕えるようで、伊閣蝶さんも触れていらっしゃるし、中には暗譜したものを演奏してyoutubeに載せてらっしゃる人もいる。


おかげでここに再現できる訳だが、まさにこの通りの音楽だったと九子は思う。


雲に乗ってやってくる仏様の一団を連想するような月からの使者たちが、人間どもの急ごしらえの旧式な武器や仕掛けの類をやすやすと破って進んでくる。
かぐや姫は宮殿の奥深くかくまわれているのだが、使者たちは武器の一つも使うことなしに、まさに人間どもを惑わす様にして姫を月へ連れ帰る。


この場面を見て九子が連想したのは「ハーメルンの笛吹き男」だった。
そう。町の子供たちが笛を吹く男に惑わされて行方不明になったあのお話だ。

音も無く擦り寄ってきて人間どもを目眩(くら)まし、腑抜けにする抗(あらが)えない力。
そんな麻薬のような力を連想させるのがこの曲なのだ。

実は九子は、もしもこの曲でなかったらどの音楽が似合うだろうかという事も考えた。

攻め入ってくるのだから、マーチがいい。
そして「ラヴェルのボレロ」を思い浮かべた。
「チャン・チャ・チャ・チャ・チャン・チャン・チャン・チャン」というマーチのリズムがぴったりな気がした。

でも考えてみると、月の軍団は影の軍団だ。
太陽を陽としたら、月は陰だから、実像ではなくて、虚像の世界なのだ。
「平和そのもので、病も老いも死も苦しみも無い月の世界」というひとつ取ってみても、生々しさの無い幻の世界だ。

だから音も無く静々と・・という感じになるはずなのだけれど、そうなるとどうも少し違う気がする。「ひたひたとしのびよる」にはボレロではちょっと重くないか?

そして久石譲氏の方を聞いてみたら・・・、やっぱりぴったりする。

底抜けの明るさの中に潜む不気味な危うさ・・みたいな。


さてさて、お話はまた現代のベートーベンに戻る。

「現代のベートーベン」という言葉を剥ぎ取られた被爆二世には、もはや音は紡げまい。
そもそも紡いだことすらなかったそうなのだから・・。

18年間彼の幽霊のごとく、影のごとく、ただ自分の曲が世に知られるのみを励みに音を紡ぎ続けた作曲家は、辞表を出した大学で、学生たち9千名分もの嘆願署名をもらって復職となるらしい。

真面目にきっちりとした仕事をしてそれだけ学生に愛されていた先生なのだから、罪滅ぼしが済めばまたこんどは本名で堂々と世の中に打って出ればいい。

もともと彼は目立たないところで、少ない分け前でこつこつと努力を重ねた。

いつでも努力した者が報われる社会であって欲しいと切に祈る。

夢の世界を飛び出して、現(うつつ)の世界で十数年を暮らし、再び夢の世界へ旅立ったかぐや姫。

もしも月の世界に音が届くとするならば 、両方の世界で酸いも甘いも噛み分けた彼女に、虚実入り乱れた交響曲「HIROSHIMA」と「現代のベートーベン」騒動はどんな風に届くのだろう?


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伊閣蝶

私の拙いブログの記事をご紹介頂き、誠にありがとうございました。
「ハーメルンの笛吹き男」を思い起こされたとの記述に、私もハッとしました。
なるほど確かにそうかもしれないと。
それから、「底抜けの明るさの中に潜む不気味な危うさ」というご指摘も全くその通りです。さすがだなと感動しました。

ところで、交響曲「HIROSHIMA」が、後付けの標題であることが判明しましたが、言葉を持たない音楽の場合、私は、その曲の中から聴き手がそれぞれの世界を想像するものである以上、そうした感覚を持って聴いても特段問題ではないと思います。
モーツァルトやベートーヴェンやシューマンの交響曲でも、標題は後付けですが、そうした標題を手がかりに聴く聴き手もいるわけですから。

一音で強い表現を示す音楽もたくさん存在します。
特に前衛音楽の場合、旋律からフリーになるため、敢えてそうした困難な取り組みにチャレンジすることもあります。
全面的なセリーによる作曲という極めて困難な創造活動を実践し、その中で心に響く音楽を作り上げる作曲家もたくさんおられ、新垣さんもそうした音楽活動の先端を走っていました。
その道だけは諦めて欲しくないと、心から祈る次第です。
by 伊閣蝶 (2014-02-13 22:00) 

九子

伊閣蝶さん、こんばんわ。
おかげさまでかぐや姫、とても楽しんで見て来れました。薦めて頂いてよかったです。( ^-^)

>モーツァルトやベートーヴェンやシューマンの交響曲でも、標題は後付けですが、そうした標題を手がかりに聴く聴き手もいるわけですから。

ああ、そうなんですね。初心者ゆえ、知らないことだらけです。こうして教えて頂けるのが、何よりありがたいです。

一音の音楽もあるのですね!その意味するものがよくわからなかったので一音で成り立つ「言葉」があると思いませんでした。これはうっかり。

今日高橋大輔さんのスケートを見て、「ヴァイオリンのためのソナチネ」でしたっけ?素晴らしいと思いました。

いい音楽は絶対に残りますよね。( ^-^)
by 九子 (2014-02-14 20:57) 

北のほたる

九子さんーーーーー、う~ん、全てに長けてますね!
あらゆるジャンルの広さ・深さに脱帽。

このままあなたの才覚を埋もれたままにしておくのは勿体ない。

今まで、そしてこれからも綴るであろうブログを集大成し、世に出してもらいたいですね。
私にはその支援力は無いが、沢山の賛同者が現れますように。祈るや切。
by 北のほたる (2014-02-15 11:12) 

九子

北のほたるさん、こんばんわ。
過分なお褒めのお言葉、恐縮ですが、何に長けてるわけでもなく、何一つとっても落第の怠け者です。

文章を書くのはただただ好きで、あてもなく書いてきましたが、ブログという表現方法を得て、北のほたるさんのように褒めてくださる方まで現れると、ものすごく嬉しいし、続けて行きたいとは思っています。

まずは坐禅の本を出したいです。きっと読んで救われたと思って下さる方がいらっしゃるはずだと思うからです。

ただ、ブログの文章のほうが自分の本当の文章だという感じはあります。

どちらにせよ、まだまだ遠い夢です。

書いて頂いたこと、忘れません!
本当に有難うございました。
by 九子 (2014-02-15 21:36) 

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