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雪かきをしながら考えたこと [<坐禅、仏教、お寺の話>]

このところの大雪で骨がきしみそうに連日雪かきをさせられている。


雪かきと言う単純作業は、九子のような集中力の乏しい人間にとっては恰好の頭の働かせ時。

逆に言えば考え事していたって難なく出来てしまうおいしい仕事と言う訳だ。


九子の家の裏には狭い川がちょろちょろと流れている。

川があると無いでは大違い。

雪かきの時にはこれが大活躍なのだ。


川が無ければ雪を山にして積み上げるしかないから、雪の山のせいで道が狭くなる。

もちろん町中の人々が(九子を除いて(^^;;)働き者という事情もあるが、隣の町に比べて小さなわが町はいつでも道路に雪が無くて快適だとドライバーには評判らしい。


雪ダンプで運んだ雪を、町中の人がこぞってこの川に投げ入れる。

新雪の真っ白い雪ばかりではなく、下の方で凍りついて黒くなった塊の雪もどんどん投げ入れられるから、狭い川はすぐに雪で一杯になる。


そのうち雪が川を堰きとめて、雪の上まで水がかぶさり、しばらく淀んだようになる。

これは大変だと思っていると、二三度雪を運んできた頃にはもう、川は雪の山の下に見事に行き先を見つけ出して流れ始めている。


こういう時、水はタフだなと思う。


九子が坐禅を習った大本山活禅寺の無形大師に、「水の如くあれ」と教えられた。

水は暑くなれば水蒸気となって霧散し、寒くなれば氷となって固まる。

だが、形は変わろうともその本質は決して変わらず、いつかまたもとの水に帰る。

そして水は器によって変幻自在に姿を変える。

水の如く、柔軟な生き方をしても、その真髄は変えるなという教えか。


考えてみると九子は、言われなくたってそれを実践してる。

理不尽な目に合うとすぐに頭から湯気を出してカッカと熱くなり、うまく行かなくなるとすぐにへこんで固まって氷になる。

器用じゃないから、器によって形を変えるってとこだけは出来ないけど・・・ってそういう問題か?(^^;;



川に続く道は狭い。人二人がやっとすれ違う程度。だから雪ダンプを持ってる時は、どちらか一方が待って道を譲る。


たしか数年前までは、中学生も高校生も挨拶をしてくれたものだった。待っててくれて有難うの意味で「すみません。」と言うと、あちらからも「すみません。」が返って来た。


あちらの「すみません。」に対して、「こっちこそすみません。」と言う。

満員電車で靴を踏まれて、踏まれた方が謝る日本人という訳だ。


ところが今年はそれが無い。3日間のうちのたった一日、こちらが待っていてあげるとたった一人が「すみません。」を言って通って行った。嬉しかった。しかもそれは九子の母校の子であった。


「すみません。」は日本人の魂だと思う。良かれ悪しかれ、九子の世代の人々の大多数が一日のうちに何回も何十回も使い続けて来た美しい言葉だ。


待たせてごめんなさい、やってくれて有難う、わざわざ面倒かけて(時間を割いて)ごめんなさいね、気を遣ってくれて有難う、などなど。


要するに日本人独特の「思いやりの心」ってやつだ。

あまのじゃくな九子とすれば、思いやりだのおもてなしだの、あんまり声高に言われると、「何よ、それ!」って気にもなるのだけれど。(^^;;


でもそれは、見えないものを見る力だ。

声に出して言われなくても、相手の事を想像する力だ。


日本人が美徳とするこの力を全く理解しない人々が世界中には多くいる。

世界中を見回さずとも、ほんのお隣だってそうだ。


自分には一切非が無くて、相手がすべて悪い。

すみません、ごめんなさいと言った途端に、それ見たことかと追求されたら、そしてそういう事を何百年、何千年と繰り返してきた人々が私たちの10倍以上も住む国と付き合い続ける事を考えると

とても気が重い。

だけど付き合わなきゃならない。


水の話に戻るけれど、水は一番低いところを流れる。

「水の如く」と言う言葉には、きっと無理をしないで楽な方に流れよという意味も含まれている。


日本人は日本人のままでいい。

無理して強くなって大陸の真似などしなくてもいい。

靴を踏まれて「ごめんなさい。」というお人よしでいい。

だってどこかの国を真似て強くなろうとしたって、何百年も養った真面目で人のいい性格がそうそう変われる訳が無い。


強くなるのは政治家だけ。政治家には目いっぱい強くなってもらって、国家を守ってもらわなくっちゃ。


水はタフだ。氷をも、岩をも砕く。

水になればいい。

真面目なところも、正直なところも、そのままを押し通して、突き進めばいい。


ずるがしこくなるな。計算高く生きるな。

持っている純粋さのそのままで押し通せ。


無形大師の「水の如く」。

日本人が自信を失っている今だからこそ、知って欲しいと思う。





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2017年年賀状 [<薬のこと、ダメ薬剤師のこと、家のこと>]

  悠也結婚式カサハラ家族.jpg
明けましておめでとうございます。
旧年は我が家にとって嬉しい年でした。
6月に三男Yが結婚しました。
豪州放浪の旅を続ける次男Sを訪ねて、8月は九子とN子が、11月にはM氏とM子が渡豪しました。この時を逃せばもう行く機会は無かろうと危惧したからです。
わずか数日の滞在でも、雄大な自然と優しい人々やコアラに癒された、散財に見合う有意義な旅でした。
今年は長女N子の結婚式が続きそうです。
遠方での挙式となり、金離ればかり良くて蓄財の才に乏しい両親は、新たな散財に頭を抱えております。
今年もよろしくお願いします。
平成二十九年 元旦

登場しなかった長男Rもお嫁さんと二人、穏やかに暮らしています。


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正月にふさわしい話題を探していたら、例によって文藝春秋のこんな記述にほうっと思った。
演出家鴨下信一氏の筆による。

斉唱は正しくは合唱と同じではない。合唱は声部がいくつかに分かれていて違うメロディーを唱うのだが、斉唱はたった一つの同じ旋律を唱う。

 
父も、九子自身も、子供たち全員も信州大学の附属小中学校に通ったので、入学式や卒業式の折の君が代斉唱は当たり前のことと思っていた。
何しろ国立大学の附属、つまりは国からお金を貰って運営されている学校だったからだ。

それが長男が県立高校に入学し、その入業式で国歌斉唱の段になった時、こんなアナウンスがはいったのには驚いた。
「思想信条の自由により、歌いたくない方は歌わなくて結構です。」
寄る年波で記憶が定かでないのだが、確かその後に「起立しないで着席していても構わない。」という一文も続いたような気がする。

そんなに多くは無かったと思うが、その通りにする人々が居たのも覚えている。
その時初めて、君が代を歌い、国旗を仰ぎ見ることに複雑な心情を覚える人がいるのだという事に思い至った次第だ。

鴨下氏の言葉に戻るが、

「君が代」がなかなか揃わないと怒りたくなる時があるが、本来前奏がないのだから意外と難しいのだ。
謡の地唄など、よく音高やリズムが合うと思って地頭に聞くと「途中で自然に合って来ます。」とのこと。
なるほど、そういうものか。
「齊」の字は、イネやムギ等の穀物の穂がいっせいに出揃うのがもとの意味だそうな、
気がつけばそろっているのがいいのだ。

穀物にしても人間にしても、育てる人には辛抱が必要だ。
「途中で自然に合って来ます。」とは、なんと経験を積んだ奥深い言葉だろうか。
こういう大らかな気持ちで子供たちを育てたかった。
5人子供を生んだくらいじゃあ、とんでもないけどおっつかない。

結婚は一応人生のひとつのゴールイン。
立派な芽をつけようが貧弱だろうが、葉っぱが緑だろうが黄色だろうが、花が大きかろうが小さかろうが、いちいち威張ったり、おろおろしたりしないで、でんと構えていたかった。
「途中で自然に合って来ます。」と微笑みながら・・・。



タグ:君が代 斉唱
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