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言葉の力 [<父を亡くす、母を亡くす>]


涙と言うものは、突然、なんの脈絡も無くあふれ出てくるものだなあと思った。

日曜日朝にやってる「いつみても波瀾万丈」という番組のファイナルでのことだ。



もう16年間も続いたという看板番組だが、10月からは新しい番組にとって代わられるという。

有名人のサクセスストーリーあり、苦労話あり、思わずもらい泣きするようないい話ありのなかなか良い企画だった。



「いつみても」というのは癌で亡くなった逸見政孝アナウンサーにちなんだタイトルで、彼亡き後もタイトル名を変えずにずっとやってきたと言う。



九子も欠かさず見るほどではなかったが、けっこう好きで気が付くとチャンネルを回していた。



ファイナルと言うだけあって、初っ端にまだ若かりし逸見アナがまだ髪の毛を黄色に染めていなかった頃の美輪明宏さんにインタビューして、美輪明宏が市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺する直前の三島由紀夫について語っている場面が出てきたのには驚いた。

まあこれがあったから、ずっと最後まで見ちゃったんだけどね。( ^-^)



御巣鷹山の日航機事故で亡くなった坂本九ちゃんの奥さん柏木由紀子さんの話とか、綾戸智絵さんのお母さまの青りんごと赤りんごにたとえた見事な性教育の話とか、どれもみんな面白かった。



ちなみにどんな話かと言えば、綾戸さんが思春期になった頃、「いいか、あんたはまだ熟し足りない青りんごで、あたしは熟れ頃食べ頃の赤りんごや。青いりんごは一口食べられてまだ酸っぱいからほかされる。そやさかいあんたも、あたしみたいに赤くなって食べて美味しくなるまで待たなきゃいかん。ほかされんようにしいや。」とお母様に言われたという話。

う~ん、鋭いなあ。(^^;;





さて次は誰かなと思っていたら、出てきたのが水前寺清子さんだった。

それにしても水前寺清子さんって十年くらい前から急に綺麗になったよね。メイクさんや衣装さんが代わったのかしらね。(^^;;

彼女のお母さんがひどい認知症になって、それでも他の人の顔はみんなわかるのに血を分けた娘であるはずの彼女の顔だけがわからない。

あんまり情けなくて悲しくて、彼女はお母さんの見舞いに行くのも一時期嫌になってしまった。



その時ある人が彼女にこう言ってくれたのだと言う。

「人間ってね、一番親しい人から先に忘れていくものなのよ。」



その言葉に救われて、彼女はまた見舞いに行く事が出来るようになったという。



その時である。九子の目からはらはらと涙がこぼれ落ちたのは・・・。



なんの脈絡も無い・・・と書いたが、よく考えてみたら「」つながりだった。

母を亡くして自分を責めていた時に、救ってくれたのが母の友人の一言だった。





母は衰弱死だった。栄養が取れずに死んでしまった。

母が食べたがった時期に、まだ充分食べられた時期に、母の大好物を食べさせてやらなかった自分が許せなかった。

大好物ならきっと食べられたと思う。少しばかり値段が高いからと言って、違うメーカーの似て非なるものばかりを並べた。



母は口をつけなかった。

「わがままなんだから・・。」としか思わなかった。



父が死んで父の年金が入らなくなってしまった。これからは節約しなければ・・。

父の遺言により姉に続いて妹も薬学部を目指すことになった二人の娘たちの学費をなんとかしなければ・・。

頭にあったのはそればかりだった。



母の命の瀬戸際だったという意識が無かった。母がいつ死ぬかもしれないと思ったら、いくら親不孝でもお金に惜しみなく何でも食べさせたはずだ。

ずっとそばに居ると感覚が麻痺して、母がそんなにひどい健康状態に陥っているという事がわからなくなる。

いや、もしも本当に優しい親孝行な娘であったなら、どんな状態であってもお金なんかに糸目をつけずに喜んで母の好物を与えただろう。





それが出来なかった自分が悔しくていたたまれない気持ちで居た時に、母の女学校と薬専の同級生のその人がお参りに来て下さった。



初対面のその人を見ても、母がここに居ない事を詫びたいような気持ちだった。

母が欲しがるものをちゃんと食べさせていたら、今頃生身の母と話をして頂けたものを・・・。



その人はふと打ち明け話をした私の顔を見て、微笑みながらこう言った。

「そうね。乙女ちゃん(母の旧名)は好きなものは好き、嫌いなものは嫌いと、とってもはっきりした人だったものね。でも、そんな顔しないでね。大丈夫よ、大丈夫! だって母娘(おやこ)じゃないの・・。」



「母娘(おやこ)じゃないの・・。」その一言を聞いた時、すーっと胸に痞えていた物が落ちた。母がすべてを承知して許してくれていると思えた。



「そうそう。九子はもともとケチなんだからしょうがないよね。あんたがやることなんてそんなもんだよ。悪気が無いのはよくわかってるよ。」



母娘(おやこ)という言葉の持つありとあらゆる温かさに包まれたような気がした。



仏教でも「和顔愛語」と言い、優しく穏やかな言葉は人の心を変え、回天の力(=天下の情勢を一変させる力)があるとまで言われる。



言葉の力は、やはり経験豊かな人生の先輩に言われた時に最大になるように思う。



その人の長い人生経験の中で、心の中に蓄積されたたくさんの言葉の中から、その人の温かい気持ちと縁によって口からこぼれ出た偶然の文字のつらなり。



その人が意図した意図しないに関わらず、言葉は独り歩きをして相手に届く。



言葉に回天の力があるものなれば、出来る事なら悪意のある言葉よりは善意の言葉を届け続けたいと思う。

優しい温かい言葉を選んで使いたいと思う。



そして、人生経験が言葉の重みにいぶし銀のような価値を与えるのだとすれば、老いる事は決して疎まれることではなく、実りある豊かな事のような気がしてくる。





40代、九子は自分がまだ若いと認識していた。

しかし50代に入ると、鏡を覗くたびに突きつけられる現実に苦い敗北感を味わっている。(^^;;



ああ、それにしても齋藤史さんは凄かった。

長野市在住の歌人で、93歳で亡くなるまで現役の女流歌人であり続けた。



史さんが亡くなった時、地元の新聞に記事が出た。その中で史さんの言葉がひときわ輝いていた。


年月は、わたくしの外面も内面もに数々の傷や皺(しわ)や襞(ひだ)を刻み、歩みの幅をも狭めながら、微塵(みじん)の一つよりも小さく置き去って----やがて過ぎるであろう。すべて当然のことである。


ああ、なんて凄い人だろうと思ったのが、史さんの歌集を読み、ホームページにアップしようと考えた理由だ。

ホームページにアップする事は残念ながら叶わなかったが、歌というものは単なる言葉よりも更に強いメッセージを込める事が出来るものだということを教えられた。



(★齋藤史さんとその力強く若々しい短歌についてお知りになりたい方には、御連絡頂ければHPにアップするだけ になっていた資料を添付ファイルの形で差し上げます。)



母も50年来俳句をやっていたが、母の俳句にも強い力がある。



歌にせよ俳句にせよ、流れてしまわないで書き留められて残るという利点もある。

ただ話し言葉ほど普遍性がないという欠点もある。



齋藤史さんのように老いるという事のすべてを当然のことと超越する強さがまだ九子にはないし、母のように自分が書き貯めた俳句をノート一冊残してすべて捨て去ってしまう潔さも無い。





そして強くも潔くも無い九子が今、一番欲しいもの。

それは・・・。



嘘でもいいから「九子さん、若いね。まだ充分綺麗だね。」って言う言葉。(^^;;(^^;;



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母の新盆に [<父を亡くす、母を亡くす>]

食欲も失せるような酷い夏だった。


三人の息子達も次々と帰省しては巣立つ前と同じ場所を占め、相も変わらず乱雑な家に顔をしかめては埃を摘まみあげたりしてみるものの(^^;;、どこかしら安心したような顔をして笑い、しゃべり、食べ、寝転がり、そしてまた当たり前の様にそれぞれの場所へと戻っていった。


違っていたのは、「ただいま」と言ってみても、「おかえり」と鼻にかかった彼らの祖父の声もしないし、いくら気分が悪くても声だけには元気がみなぎっていた祖母の姿も無い事だった。


去年の春に父が、暮れに母が亡くなって、9人の大家族だった我が家はこじんまりとありふれた日本人の平均的な4人家族となった。


おととしの秋頃から、父母はベッドを並べて食事の時以外は寝てばかりいるような生活だった。


母が骨折して二ヶ月入院した病院を暮れに退院してから、父が亡くなるまでの4ヶ月間、私は二人のベッドの足もとで寝袋にくるまって寝ていた。


たいした食事を作った訳ではないけれど、三度三度の食事の世話があった。
デイケアだ、やれ訪問入浴だ、やれ点滴だで、毎日のように何かしら準備があった。


洗濯物もすぐに溜まった。
たまには薬局に客も来た。(^^;;
その薬局も、父母につきそって病院へ行くんで頻繁にシャッターをおろした。


今から考えるとまるで私でないみたいに結構頑張ったが、一体どうやってこなしていたのか、あまり記憶がない。
たぶん私にとっては欠くべからざるお昼寝の時間すらほとんど取れていなかったと思う。


長年の経験で、体力がひどく落ちる事がうつ病の引きがねになる事を知ったので、薬だけは目一杯飲んでいた。毎日が綱渡りの連続だった。


そんな風に過ごしたのがまるで嘘のような、今年のゆる~い生活だ。


体力的にもそうだけれど、昼寝をするにも、遅くまでネットをするにも、昔は父母には一応気を遣っていた。
それが今では、恐いのも無しの一人天下である。( ^-^)


母が思いがけずに死んでしまった時は、本当に途方に暮れた。


まったくひどい話だが、今思えば当初母を亡くす事で一番辛かった事は、母が居なくなるともう貰えなくなってしまう父の年金だったのだ。


父が40年間、何度も落選の危機を乗り越えながら市会議員を続けて貯めてくれた年金だ。
当然のように娘達の学費の当てにしていた。


(娘達は二人とも薬学部志望だ。)


母は衰弱死だった。
食べたいものが食べられなくなって死んだのだ。


父が亡くなって、父に入った額の半分しか母に入らなくなった。
だから、もともと節約家の私は節約にこれつとめ、大事な母が一番食べたがったものまで節約しようとした。


節約家というのもまあ聞いたところはいいが、要するに怠けものなのだ。
母みたいに働き者で商売の才能があれば、自分が働いて儲ける事を考える。
働くのが嫌な怠けものは、出し惜しみをするって訳だ。


おかゆも、そうめんも、かき氷も、母にはお気に入りがあった。
好き嫌いのはっきりした性格の人だったから、母のお気に入りを買って来てさえやれば、きっともっと食べられて、去年の夏を乗り切れたと思う。


母は夏が乗り切れずに1ヶ月入院した。
そして退院して十日で亡くなった。
こんなに早く母が亡くなるとわかっていたら、一日でも早く母を病院から連れ戻したのに・・。


百円かせいぜい数百円の母のお気に入りを買うのを惜しんだのはこの私だ。


はたして母は、お気に入りとは違うおかゆもそうめんも、一口すするともう食べなかった。


かき氷は「身体に悪いよ。」と言って、買う事さえ控えた。



今年のこの暑さの中、私は毎日アイスクリームばかりを食べている。
冷たくて甘いものはこの時期、本当に涙が出そうなくらい嬉しい。


母はどんなにか、たった60円のイチゴのかき氷を食べたかった事だろう。


最後の最後にN子のアイスクリームをおいしそうに食べてくれた母だ。
最初から食べさせてやっていたらなら、ちゃんとカロリーも取れてあんなに早く死ぬ事はなかったに違いない。


母は「かき氷が欲しい。」とは言わなかった。
母が一言そう言いさえすれば、いかに非情な私でも買ってきて食べさせた。


母にそれを言わせない雰囲気をかもしだしていたのもまた私だったのかもしれない。


とろりと甘いはずのアイスクリームが、母を思うとほろ苦い。



すべては、「まさか」という思いゆえだった。


あの、人一倍体力、気力の充実していた母が、まさか死ぬなんて。
まさか女性の平均寿命86歳の時代に、70代の母が死ぬなんて。
食道癌も治ったし、他にどこにも悪いところのない母がまさか死ぬなんて。


いや、その「まさか」にすら思い至らなかった。


いくら親不幸とはいえ、母がもしかしたら死んでしまうのではないかという怖れの気持ちがほんの一瞬でもあったなら、どこかの時点で正す事が出来たはずだった。


母は元気で当たり前。
今まであまりにも強く、明るく、比類ないほどの楽天主義者で、我が家を一人で支えてきた。
そう。母は私の中で、生きてて当たり前の人だった。


そして母に死なれてみて、この世の中に当たり前のことなど何一つなかったことに遅まきながら気付かされた。


思えば仏教の一番大事な教えが無常観と因果律だ。


母がいつまでも変わらず元気で、私のために何でもやってくれる。
まさか死んでしまうなんて考えられない。
でもそのまさか!を警告してくれていたのが無常観だった。
この世の中にいつまでも変わらない物などないし、ましてや死なないものもない。


母が私にいろいろやってくれるのは、親として当たり前。
いや、この世の中に当たり前なんてものはない。
見えない因と縁によって全てのものはそこにあるのだ。


私にとって当たり前に見える事だって、母の愛情という原因が根底にあって、それをすることをいとわない母の努力という結果によってずっと支えられてきた。



一人っ子で育った私に、父母はなんでもしてくれた。
そして自分は指一本動かさずに、何でもしてもらう事に慣れていった。


今でも思い出す光景がある。
小学校5年生の時の参観日。


4月に新しく担任になったS先生の前で、母はいつものように私を立たせて、コートを着せてくれていた。
私は直立不動でつっ立って、母に着せられるままになっていた。


「手は無いのかな?」
S先生に言われた言葉を今でもはっきりと覚えているところをみると、子供心によっぽど堪えたのだろう。


何しろ優等生だった私(^^;;が、それまで先生に何か注意されるなんてほとんど無かったのだ。



子供が5人も生まれれば、ふつうは何かをしてやる側に回るのが当たり前なのに、出き過ぎ母は5人の孫までも、何も出来ない娘の代わりに育ててくれた。与え続けてくれた。


相変わらず母がしてくれるのが当たり前と思っていたわがまま娘は、自分では何もしないまま、してもらう事だけを当然の事として求めていた。



母が弱くなった時、それでも気丈な母は、出来る限りの家事は率先してやってくれた。


骨折で入院する前日まで、風呂の浴槽をブラシで洗って水を張る、考えてみると当時もう22キロほどの体重だった小柄な母には危ない仕事を、これまでもいつも母がしていたからという理由だけで、母がやってくれるのを止めもしなかった。


心のなかでは、そろそろ自分がしなければ・・という気持ちはもちろんあった。
でも最後まで母に甘えきっていた。


母が亡くなった時、ばちが当たったと思った。


母を愛情深く看てやらなかったばち。
大事な母に食べさせるものすら節約したばち。
自分がやらなければならないことをおざなりにして母に任せて頼りきっていたばち。



辛い辛い数週間が過ぎた。


あんまり辛いので、何ヶ月ぶりかで活禅寺へ行った。
そして母のために改めて大法要というのをしてもらう事になった。


自分という人間を根底から救って、生まれ変わらせてくれた禅寺でしてもらう、納得のいく祈り。


父母も仏様の掌中で幸せにしている事をひしひしと感じる事が出来、自分の罪が赦されて行く気がした。



仏の教えとは、何と厳しく、非情で、正確で、誠実で、せつなく、慈悲深いものであろうか。


母との最期の日々は、私に課せられた信仰を試される試練だったのだ。


無常観、因果律をよくかみしめて、何よりもまず大事な母に与える努力を最優先していれば、母は死なないで済んだはずだ。


まず仏様は、私の、積極的に母を愛することをしなかった罪を厳しく断罪された。
その結果、母は亡くなった。


でも罰したままで放って置く事は決してなさらないのが仏様だ。


時間という何よりの薬のおかげで、父母の側も「老いの苦しみ」という絶え難い苦しみから開放された事を知る事が出来た。


何より、私の前に現れる二人の顔がいつも笑顔なのがそれを物語る。



一周忌のために用意した二人並んだ写真の中で、母はいつもどおり笑っていて、父は心配そうにこちらを見ている。


生きていた頃の二人そのままだ。


心配性の父は、いつも家族の心配ばかりしていた。


でも今は、私の前で父もいつでも笑っている。


私自身も楽にしてもらった。


一応主婦(^^;;の私にとって、人が少なくなると言う事がこんなにも仕事量が減るもの、すなわち体力的にも精神的にも楽になって、何より大好きなお昼寝が何度でも出来ると言う事実は、想像をはるかに超えていた。( ^-^)


結局二人が、私を楽にしてくれるために早く亡くなって行ってくれたのかもしれなかった。
「こんな身体になって、あたしゃもう長生きなんかしたくないよ。あんたに長い事迷惑かけるのも可哀想だから、さっさと死んでくからね。」


仏様を身近に感じるようになってからというもの、すぐには解らなかった仏様の本当の慈悲を、じっくり時間をかけてゆっくり納得出来たという経験を何度もした。


その時はしまった!失敗した!と思って落ち込んだ事、仏様に頼んでおいたのに仏様って頼りにならないわと思った事が、後になって考えると、実は知らないうちに良い結果を生んでいたという事実だ。


仏様の前では、決して嘘をつけない。
すべてを見ていらっしゃって、厳しい顔もなさるが、最後の最後にはきっと赦して下さる。
何よりこんなにいい加減な仏弟子に対しても、仏様は救いの手をさしのべて下さるのだから・・・。


その本当の優しさがわかるのは、だいぶ時間が経ってからだ。



そして後になってからじっくり考えてみると、試練と思われる事どもは、時に応じて自分にとって必要欠くべからざる尊い教えであったのだと心の底から納得する。


人生の辛さはすべて、仏様が下さった試練だと思えるようになると、そして最初はわからなかったその本当の意味をわかるようになると人生が違って見えるような気がする。



以来、母も私もずっと年賀状を送り続けたS先生が、母と何日も違わずに亡くなられていた事がわかった。


ちゃんと私が手を動かして、自分から人様に与えているかどうか、たくさんの目に見つめられている気がする。


母の死 仏教 母
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母を亡くす・・・両親からの贈り物 [<父を亡くす、母を亡くす>]

おかげさまで4月1日、両親の一周忌を無事すませました。
3月いっぱいで「母を亡くす・・シリーズ」はおしまいにして4月から新たな気持ちでダメ母日記を 書いていくつもりでしたが、結局最後の一話のみ4月にずれ込んでしまいました。
まあ、私にしてみれば極めて普通の成り行きです。


次回からはいつもの気楽な日記に戻りますのでお楽しみください。




思えば、父の事を書き切らないうちに母が亡くなってしまったので、父の事が尻切れトンボになっていた。父の事ももう少し書いておきたいと思う。



父は、今の言葉で「うざい!」と思うほど一人娘の私を可愛がってくれた。



父母の一周忌。

M氏の許可を得て、施主の代わりに挨拶をさせてもらった。


その冒頭から引用させてもらう。






もう少しで桜が咲くから、またお花見に行こうねと言うと、ああ、行こうやと言っていた父が、桜を 見ずに逝ってしまってから早一年。そのあとを追いかけるように母が亡くなってから四ヶ月が過ぎようとしています。


今更ながら、一人娘として二人に注いでもらった愛情の大きさをかみ締めています。


父十兵衛は、体力が落ちて一人で歩けなくなるまで、ブログ書きなどして深夜までパソコンに向かっている私に「もういい加減にして早く寝ろ。」と毎日のように小言を言いました。


そして私がしぶしぶ狭い路地一本離れた裏のうちに向かうのを、見えなくなるまで心配そうに見送る のです。


私が裏のうちの鍵をしめ、階段を上って二階の寝室の電気を点けるまで、いつまでも父の影が遠くに見える母屋の窓ガラスに映っていました。


私はその頃もう50歳でした。50になっても父にしてみればどんなにか心配な一人娘だったのでしょう。


思えばいいお婿さんがもらえたのも、子供を5人も育てられたのも、みんな父母が居なければ決して出来ない事でした。


産院から退院してくるともうすぐに、夜中の授乳の二回に一回は母が代わってしてくれましたし、子供たちの入浴など私や主人はほとんどした事がありません。


手がかかるようになれば子供たちの定席はおじいちゃんとおばあちゃんの間と決まっていました。

大変なところはすべて二人にしてもらっていました。








父は職業柄、視察や旅行でいろいろな場所に行く度に必ず私にみやげを買って来てくれた。

さすがに結婚してからは私が口を酸っぱくして言ったのでアクセサリーなんかに代わったが、それまで父が買ってくるのは、安っぽい置物とか観光地の名入りのキーホルダーとか、いつでも小学生に買うような土産だった。

父にとって、私はいくつになっても幼いままの一人娘だったのかもしれない。



それでも二十歳くらいまでは「パパ、パパ」と慕っていた子供じみた娘が、突然手のひらを返したように冷たくなって、父は内心驚いたかもしれないし、もしかしたらそんな事にはまったく無頓着だったかもしれない。



とにかく世のお嬢さん方が皆そうなるように、父親がすることなすことどうも気に食わない時期が以 降何十年も続く事になる。



父の事を本当にいとしいと思うようになったのは、父が年老いてすっかり弱ってからだ。



父が軽い脳梗塞の発作を起こして救急車で病院に運ばれた時も、その時ばかりは心配になったが、なんとか一人で以前と同様の事が出来るとわかってからは、もう今までと同じく反発ばかりしていた。



父の、年とともに痩せては来たが骨組みのがっしりした大きな身体を、私の肩がなければ支えられなくなってはじめて、この人をいつか失う事になる日が来る事を本気で悲しく思った。





母が亡くなった時、頭の中が真っ白になった。



母はいつでも私にとって一番大事な人であり、母の居ない毎日など考えられなかったからだ。

何も出来ない娘を、まるで自分が育てた責任を取ってくれているかのように、何でも手助けしてくれた。





私と言う人間はどこまで冷淡に出来ているのか、父母を一緒に同等に愛せた記憶が無い。

父が大好きな時は母がおろそかになり、母に肩入れしている時は父をうとましく思った。



父の身体が弱くなって父に対する愛情が復活すると、とたんに母の事がおろそかになった。

まるでいつまでも釣り合わない秤(はかり)のようだ。



その秤は、母が亡くなるたった三日前まで、本当の意味で母に傾く事はなかった。





父の時のように「この人を失う日が来る事」など考えた事も無い。そんな事永遠に無いと思っていた。私にとって母とは、そんなにも身近な存在だった。



居てくれて当たり前。居ないことは考えられないけれど、居るからといって別段どうって事ない。

そんな風に思っていて母の日に特別なプレゼントなどした事も無いわがままな一人娘は、仏様から母を取り上げられるという手痛い罰を受ける事になる。





罰と言えば、更に罰当たりな事がある。



母が亡くなった時最初のうち本当に私を悲しませたのは、母が亡くなった事そのものではなくて、父が80歳まで市会議員として働いて残してくれた年金が、母が亡くなったことによってもう受け取れなくなってしまったという現実だったような気がする。



うつ状態の時に特異的だと言われる「自分が一文無しになってしまう」と言う妄想が絡んでいたかもしれないとは言え、こんな事を先生の問診の時も話していたかと思うと顔が赤くなる。





母が亡くなって辛くて辛くて、最初に考えた事は「私は子供たちに嫌われるくらい長生きしよう。」という事だった。



私は一人っ子だったから母を亡くして悲しむのは私一人だけだったけれど、かりそめにも私は五人の子の母親なのである。

私が死んでとりあえず子供たちが悲しんでくれると仮定すると、単純に考えて五人の人間が同時に私と同じだけ・・・かどうかわからないが、悲しむことになる。



今の私の年で母親を亡くしてもこんなに悲しいのだ。

少なくとも末娘が私と同じ年になるまで生きていてやろう。



娘のどちらかが面倒を見ていてくれるに違いないから、「あのババア、早く死なないかなあ。」と悪態つかれるまで長生きしてやろう。



そうしたら、私が死んでみんなほっとしてくれるに違いない。お赤飯炊いてお祝いするかもしれない。





だけど世の中そううまくは運ばない事もある。



「憎まれっ子世にはばかる」のはずが、「美人薄命(エッ!!)」でころっと逝ってしまうかもしれない。



でも少なくとも末娘の子供たちに手がかからなくなるくらいまでは生きて居てやりたい気はする。



もっとも今になれば、父母が居なくなった寂しさよりも、自分の時間がたっぷり出来た気楽さの方が勝っていたりする。



やっぱりほどほどのところで死んで行ってやるのが子供のためか・・・。





自分の気持ちを冷静に書いておきたくて、そうする事が悲しみから早く抜け出すよすがになるかもしれないと書き始めた「母を亡くす・・」シリーズだけれど、もしかしたら子供たちのために、いつの日か私が死んだ時、子供たちがこれを読んで母を亡くす悲しみを少しでも薄める事が出来るのであれば幸いである。



「ママはおばあちゃんにあんなひどい事したんだ。そんなら自分だっておんなじ事されて当然だよね。」と、子供たちは思ってくれるだろうか。

「ママに比べたら私たちって親孝行な方だよね。」と安心してくれるだろうか。








両親が私に残してくれた数え切れないものの中で最大のもの、それは460年続く雲切目薬です。


一番忙しかった頃、母は私の祖父16代十兵衛の介護をし、目薬の機械を回し、一人で目薬を作っては店や家の仕事もしていました。一体どうやっていたのだろうと驚くばかりです。


中身は別物になってしまいましたが、父母の尽力で名前だけでも残せたお陰で、幸運がたくさん重なってマスコミにただで宣伝してもらい、全国から注文を頂ける様になりました。


とりわけ母の四十九日(七七忌)の直前に出たディアゴスティーニ社の日本の100人山本勘助特集号に載せて頂いた時は嬉しさがこみ上げました。


あの時ああしていたら、こうしていたら、母はまだ生きていてくれたんだろうかと悔やんでばかりいた時期だったので、母が私の親不孝をすべて赦してくれたようで、救われた気がしました。


でも考えてみると両親は、はなっから私の親孝行など期待していなかったのかもしれません。どんな欠点があろうともそのままを丸ごと受け入れて目の中に入れても痛くないほど可愛がってくれる、そんな両親でしたし、自分が親と言われる立場に立った今、そうすることがいかに難しいかをつくづく 思い知らされます。




雲切目薬は、両親が私に遺してくれた最大の有形の遺産であるが、両親、特に母が命を削って私に遺してくれた偉大な教訓がある。

でもこれは私にとっては大きな教訓だが、普通の大人ならきっと何でもないこととして日々実践しているに違いない。



普通の大人になりきれなかった私は、母を亡くしてみて初めてそれに気が付いた。

母の命という大きな代償と引き換えに・・・・。





それは、自分より先に人に与えること。

受け取るばかりではなく、自分から与えること。



両親の愛情を貪り食って育った私には、根本的にそれが足りなかった。



パックの白かゆが欲しいと母が言った時、まず母が喜ぶ物を自分の事情などお構い無しにいの一番に母に与えること。



不思議な事に、子供に対しては本能的にしていたかもしれないこと。

それが母には出来なかった。



「自未得渡先渡他(じみとくどせんどた)」

活禅寺で無形大師からも幾度も教えられた。



(船着場で)まだ自分が渡らないうちに他人を先に渡せ。



自分の利益を最後に考えるのが人の道なのだ。

それなのに、両親の愛情をむさぼり続けた私。



貪(むさぼり)じん(いかり)痴(ぐち、無明)は仏教でいう三毒だ。

一番卑しむべき煩悩である。



それを優先させたがゆえに、大事な母は痩せ細って死んでしまった。





父母の口癖が今でも鮮やかによみがえる。



父のは「おい恭子、やってやれや。九子がもうらしいじゃないか・・。」



もうらしいというのは長野の方言で、可哀そう・・みたいな意味だが、父がそういう時の「もうらしい」は、可哀そうよりももっと情が濃かったような気がする。



結局母に押し付けて、父は何もやっていない・・というのがいつも反発の理由だったが、何もしていないのは私も同じ事だった。



母の口癖は「どう、どう・・。」

「どら、どら、貸してごらん。」と言う時のどら、どらだ。



「どう、どう・・。」と言われてすべてを母の手にゆだねるとあら、不思議!

今までどうしても出来なかった事がまたたくまに仕上がってしまうのだ。



この「もうらしい」と「どう、どう」の二人の愛情によって、私は五十年余りを生きてきた。



二つの言葉に共通するのは、他(・・と言っても血を分けた娘ではあるが)への熱い思いであり、常に寄せられる関心であり、自分を捨てても他に尽くそうとする奉仕であった。



そしてそれが、私に決定的に欠けていたものだった。





「私のことなんかどうでもいいんだよ。だけどさ、あんたのもう一人の一番大事な人、Mさんの時にはちゃんとやっておやりよね。」



もの言わぬ母がそう言っているような気がした。





父が亡くなってもう一年。母が亡くなってまだ4ヶ月。



二人が遺してくれたものは計り知れない。




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母を亡くす・・・最後の日々 [<父を亡くす、母を亡くす>]


母が退院してから亡くなるまでの十日間は、今にして思えば仏様が私たちに与えて下さった特別の別れの時だったような気がする。



ほんの一週間の入院のつもりが入院は一ヶ月にもおよび、母はしきりに家に帰りたがった。



母が一番元気だったのは最初の二週間。

あの頃は、「ああ、うちに帰ったら美味しいすき焼きが食べたいよ。」と言って、帰るのを楽しみにしていた。



院内で開かれた誰かのお誕生日会で、母は歌まで披露したという話を看護師さんから聞いて、本当にび っくりした。



母は元気な時、仕事をしながらいつも鼻歌を口ずさんでいた。

歌は布施明だったり、さだまさしだったり、年相応よりも若い歌がほとんどで、演歌なんかは大嫌いだった。



昔は独唱もしたくらい声が良かったのに、鼻の手術をした後からは高い声が出なくなったと嘆いていた。



母の鼻歌は母の元気の証拠で、食道癌の手術をした7年前以降はめったに聞かれなくなった。



その母が人前で歌を歌ったというのだ。



看護師さんは確か曲名まで覚えていて私に伝えてくれたはずだったのに、いい加減に聞いていた私にはどうしても思い出せない。



ただ、母がふだん歌いそうにない曲で、「えっ?母がそんな歌を?」と思ったことだけは確かである。



今になれば、看護師さんが忘れてしまわないうちにもう一度T病院に行って曲名を確かめたいと切実に思う。



それが、玄関に置いてある車椅子を見るたびに母が乗っていたのを思い出して切なくなるから、本当は一番行きたくないはずのT病院だったとしても・・・。





三週間目くらいを境に、母の元気は急速に萎えて行った。

しきりに家に帰りたいと言い出したのもその頃だ。



「九子お~、もうこんな病院いやだよ~。早く家へ帰りたい。先生に頼んで明日にでも帰してちょうだい。」



自分の命がもう長くないのをわかっていたのだろうか。

あの気丈な母が、一度などは3階の病室の窓の外を指差して「うちに帰りたくて帰りたくて、できるもんならあそこから飛び降りたいよ。」とも言った。



そんな言葉を聞いても、私は母の切実な思いなどまったくわかってやれなくて、院長先生に頼み込んで母に抗うつ剤を出してもらおうなどととんちんかんな事を考えていた。



あの時母を家に帰してやれたら、母はすき焼きを食べて元気になって、今頃まだ生きていてくれていたのだろうか・・・。





そんなにしてまで帰りたがった母だったのに、いざ帰って来てみても、そんなに嬉しそうにも見えなかったし、あんまり元気も出なかった。



あれほど食べたがったすき焼きすら、私にしたら大奮発の柔らかい和牛の霜降りロースを買ってあげたのに、ほとんど箸もつけなかった。



母にはもう、喜ぶ体力すら残っていなかったのだと思う。



それでも帰ってから5日くらいは普通に生活していたけれど、6日目に急に呼吸が苦しくなって救急車 で市民病院へ運ばれた。



病院はもうこりごり、家に帰りたいと母が言うので、酸素吸入だけしてもらって家に帰って来た。



それを境に、母の指につけられたパルスオキシメータ(心拍数・血中酸素濃度測定器)の値はちょっと した事で大きく変動するようになる。



母が苦しそうな時には血中の酸素濃度が70%くらいに下がっている。



不思議なもので、そんな時でも私の顔を見ると安心してくれるのか、下がっていた酸素濃度がすぐに上がって来るそうで、M子は「ママはおばあちゃんのそばにずっと居なくちゃダメ!」と言ってくれた。



それでもその週末母は持ち直し、遠くに居て卒業試験を控えた長男Rはだめだったが、比較的近くに住んでいる次男Sと三男Yが帰ってきて、「なんだ、ばあちゃん。元気そうじゃないか。」と安心して下 宿先へとまた戻って行った。



二人の姿を見送るように母の容態は再び険しくなり、日曜の夜中から酸素マスクを離せなくなった。



たまたま調達してあった酸素ボンベが朝方で切れてしまい、朝からコンビ二の3分くらいしか持たない簡易式の酸素スプレーを買い漁った。



困って主治医の先生に電話すると、在宅酸素の機械が借りられそうだとのこと。



この機械は全くの優れもので、部屋の空気から半永久的に酸素を作り出す事が出来るから、これがある限り一生酸素が途切れる心配はない。



以前借りてもらうように頼んだ時は、特別の肺の疾患がない限り借りられないとの事だったのだが、救急車で運ばれたいきさつがあるので借りる資格が出来たらしい。



午後には来るはずの機械が結局夕方になり、なんとかあちらこちらに頼み込んでボンベを調達し、それこそ綱渡り状態で最後のボンベが切れる寸前で機械が間に合った時には、母の命をまた仏様が助けて下さったと思った。



こんなに母は運がいいんだもの。絶対にまた元気になる!



本気でそう考えた。

人間が酸素だけで生きていられたらこんなに楽な事はないのだけれど・・・。





結局一生酸素を作ってくれる機械は、丸一日しか働く事はなかった。





母に親不孝は星の数ほどしたけれど、最後の数日間だけはなんとか精一杯尽くしてあげられたようには思う。



一番は母の希望通り、家で看取れたこと。



勤めや学校を休んでくれたM氏や娘たちにも見守られ、最後には大好きだった庭を思う存分カーテンも戸も開けっぱなって、寒さもものともせず好きなだけ見ることが出来たね。



考えてみると病院で一人で死んでいった父は気の毒だった。

もちろん心不全だから、あっという間に逝ってしまったには違いないのだけれど・・。



M氏も本当によくしてくれた。



M氏のお母さんの時、苦しむのを見るのが辛くて、家族はみんな「もう(頑張らなくて)いいよ。」と 言ってしまったのが今でも心残りだと言って、「お母さん、頑張ってください。弱気になっちゃだめですよ。」と励まし続けてくれた。



酸素ボンベを調達するために奔走してくれたのもM氏だ。

お陰で母は一度ならず二度までも蘇った。



母の臨終に間に合わない事はわかっていたのに、次男Sと三男Yがその夜のうちに帰ってきた。



特にYは、結構感情の起伏が激しくてカッとなると見境もなく叱るおばあちゃんの恰好のターゲットになっていて、一番叱られた孫だ。



まじめで素直な彼は、叱られるとすぐに言う事をきくので一番叱りやすかったのかもしれない。

家族みんなの記憶の中でも、おばあちゃんがYを叱っていた姿が焼きついているみたいだ。



そのYが、母を見るなり号泣した。



思う存分泣いた後、「オレ、ばあちゃんに叱ってもらってよかった。」と言った。

おばあちゃんに叱られ慣れていた彼は、誰に叱られてもめげない人間に育った。





高校生の娘二人も、学校を一日休んでまで看病してくれた。

特に受験生N子のアイスクリームの一件は、死に行く母の心にも響いたようだ。





N子は兄が三人もいるせいか、やることなすこと男っぽい。

特に言葉使いはまったく男の子そのもので、いくら口を酸っぱくして直そうとしても、本人に直す気がないのだから仕方がない。



だけど、自分のものを惜しげもなく他人に振舞える心根の優しい女の子だ。



その日も夕食はほとんど箸もつけずに「もうたくさん。」と言った母の部屋の障子を開けて、N子が飛 び込んできた。

手にはその日のおかずのチンジャオロースーを乱暴に盛り付けたのを持っている。



「ばあちゃん、これ食えよ。」ぶっきらぼうないつもの口調で、怒ったようにN子が言う。



「食わなきゃだめだよ、ばあちゃん。ばあちゃんはどこにも悪いとこないんだよ。それなのに、食べないで死んじゃうなんて、悔しい・・・。」そう言ってN子は泣き崩れた。



はっとしたように母がN子の顔を見た。

「わかったよ。食べるから・・・。」と言って、本当に食べようとした。



母はもう長いこと固形物を口にしていない。



「Nちゃん、気持ちは嬉しいけど、おばあちゃん急にそんな固いものは食べられないよ。そうだ。なに かおばあちゃんが簡単に食べられそうなもの、コンビニで買ってきてあげて!」



そして彼女が買ってきたのが、倹約家の彼女にしてみたらまさに清水の舞台から飛び降りるような気持ちで買ったに違いないハーゲンダッツの小さいカップ。



それを母は、おいしい、おいしいと言って三口も食べた。そしてお決まりの「もうたくさん。」を言わなかったのはその時が最初で最後だった。



「Nちゃん、おばあちゃんこれ後でまた食べるから、冷蔵庫にしまっておいてね。」



N子の背中が見えなくなった途端、「あの子は優しいねえ。」と母が何度もつぶやいた。





納棺の時、N子は最後の最後に、あの時のアイスクリームを母の口元に近いところにそっと入れた。



母が食べたそうにしているように見えた。




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母を亡くす・・・きたさんの昔話 [<父を亡くす、母を亡くす>]

☆このところ2週間ほど、日記のトップページが表示できない不具合があり、大変ご迷惑おかけしました。


こんな時期と重なったのでわざわざどうしたのかとメールを下さった方もあり、ご心配おかけしてしまったこと申し訳なく思っています。


お陰様で私はもうほとんど元通り元気にしています。


どうしてもコメントなしで書きたかった懺悔の部分も終わりましたし、今まで外しておりましたコメント欄を今日から復活させました。


もしよろしければ、また今まで通りコメントして頂けたらと存じます。


有難うございました。



***************************************





きたさんは我が家の10人目の家族である。



母の畑作りの指南役でもあり、梅や杏の木の消毒やら、たわわに実った実の収穫やらは、早朝から当たり前のようにきたさんが来てくれて一人でやってくれる。



何か困ると母も私も、まずきたさんに電話する。

手があいていさえいればすぐにでも駆け付けてくれる頼りになる助っ人がきたさんだ。



きたさんはスーパーマンだ。



年は母より二つ上、つまり81才だが、20年前と同じ日に焼けた浅黒い顔、隆々とした筋肉で、今でも薬店経営のかたわら、生まれ故郷の村に毎日車で通っては、畑仕事やら山采取りやらで人の何倍も働いている。



年をとらないきたさんの事を、うちの子供達は「おばけみたい。」と言う。

そして何よりすごいのは、その記憶力だ。



親戚のある人は、きたさんを称して「笠原家の歴史そのものだから、この人には長生きしてもらわなくっちゃ。」と言う。



そう。きたさんは誰よりも良く昔の我が家のことを知っているのだ。



きたさんがうちに丁稚奉公に来たのは、15歳の時だったそうだ。

以来今日まで60年以上、昔の人らしい律儀さで、うちの事は決して悪く言わず、悪く取らず、心底尽くしてくれる得がたい人だ。



当時は16代十兵衛、つまり私の祖父と祖母の時代で、祖父は名誉職、つまり無給の市議会議長だったから、お客はたくさん連れてくるは、当時の習慣で飲み食いの接待でお金はかかるはで、祖母は一人雲切目薬を作って稼がねばならず、大変苦労したんだそうだ。



祖父は「仏の十兵衛」と言われて人当たりの良い穏やかな人だったが、家の中ではあまり物をしゃべらず、電話に出たりは一切せず、すべて忙しいきたさんに取次ぎさせた挙句「なんであんな人間からの電話を取り継ぐんだ!」と文句を言ったり、その反対に取り継がないと叱られたり、結構大変だったらしい。



「17代、あんたのパパはその点楽だったよ。電話でもなんでも、みんな自分でしてくれたからねえ。」



にも関わらず、きたさんの話はいつも決まってこう終わる。



「あの人(地元の名士の名前)なんか今じゃふんぞり返って威張っているが、このうちがあったからこそ、十兵衛さんの信用があったからこそ、銀行だってお金も貸してくれたんだ。本当だよ。そういう恩義を今の若い奴らはちっともわかっちゃいない。なんてったって一番偉かったのは、市会議長を長年やって全国に顔を知られた信用あるあんたのおじいちゃんさ。」





母が父と結婚した時の事をきたさんからはじめて聞いたのは、母が亡くなる間際だった。



病院を退院してからの母は、食事もほとんどとれなくなり、酸素の値も日ごとに落ちてくるので、主治医の指示で在宅酸素機という部屋の空気から半永久的に酸素を作りだす機械を借りることが出来てほっとしたのも束の間、亡くなる3日ほど前から肺の機能が更に落ちてきて、機械の作る酸素でも足りなくなって、母は何度も危篤状態に陥った。



しかし持ち前の気力で、再三蘇ってくれたのだ。



きたさんは都合三度、母の枕元へ呼ばれた。

そして決まって母の頭を抱き起こしながら、同じ言葉を目をしばたたかせながら語りかけた。



「奥さん、あんたは笠原家の中興の祖だよ。あんたは良くやった。あんたが居なかったら、この家は持ちこたえられなかったと思う。



細いちっちゃい身体で、一人で目薬作ってさあ、(父の)選挙になれば駆けずり回り、その上先代の世話もしてさあ。

あんたは本当に良く働いてくれた。決して誰にも真似出来るこっちゃない。



男前のうちの先生(17代・・父のこと)に惚れたばっかりに苦労したけれど、あんたが来てくれたお陰でこの家は立派になった。



一人娘の九子ちゃんは、子供を五人も作ってみんな良い子たちだ。

あんたが立派に育てた孫達だよ。だから、後のことはなんにも心配しなさんな。」



同じ言葉を同じ様に3回耳にしたけれど、誰も笑う者は無くみんな神妙に聞いていた。

一度目よりも二度目の方が、そしてさらに三度目というように、だんだんきたさんが声を詰まらす回数が増えていった。



母が父に惚れて結婚したなどという話を聞いたのはその時始めてだった。

考えてみるとわかる気がする話だった。



30代の父は、大柄で美男子だったからきっとかなりもてただろうと思う。

そして母も、小柄だったがちょっとバタ臭い顔立ちで、新聞の「街でみかけた素敵な女性」みたいなコーナーで何度か取り上げられたと自慢していた。



事実何年もずっと会うことのなかった従兄に葬儀の席で「おばさん若い頃本当に綺麗だったんだから・・・。」と言われた。



そんな目立つ事の好きな母が面食いだったろうと言うことは容易に想像できる。





「長野の市会議員さん何人いたって、奥さんと社交ダンス踊れる人なんてそうそういるもんじゃないよ。オリンピック招致の時、二人は外人さんの前でも颯爽とダンス踊って評判だったんだってよ。」



きたさんはそう言ったが、きっと上手かった母の方がリードして、運動音痴の父が引っ張られていたって言うのが真相のような気がする。





勝ち気で陽気な母は、きたさんに言わせると「発展家」だったそうだ。

発展家とは、社交家・・というような意味か。



母は東京の癌研病院に勤めていた。

母の調剤の早さは、きっと忙しかっただろう病院勤めで培われたものだ。



そこの薬局長の先生に勧められて、社交ダンスも俳句も始めたと聞いている。





昭和30年代、薬局および薬剤師は今と比べたら夢のように華やかな時代だったらしい。



何より薬剤師は、医者の処方箋なしに好きな薬を勝手に調合できたらしいのだ。



母ときたさんのコンビで作った名処方が、当時長野市内で結構効き目で評判だったというカサハラ薬局特製風邪薬だったそうな。



母は夕食後の分にだけ副作用で眠くなる抗ヒスタミン剤を入れた。

朝昼は仕事の邪魔になるから入れない。



良く考えてみれば、今ある朝昼夜用コンタックみたいなもんだ。

それがとても評判で、店を開ける前から並んでいた人も居たらしい。



びっくりだったのは、薬剤師はともかく、薬種商さんのきたさんまでが勝手に抗生物質を売れた時代だったという事だ。

(今現在、薬剤師はお医者様の処方箋なしに勝手に調剤は出来ませんし(薬局製剤は除く)、薬種商さんは調剤行為そのものが禁じられています。もちろん薬剤師も薬種商さんも、処方箋薬である抗生物質を処方箋なしに勝手に売ることは出来ません。)



だから製薬メーカーも左うちわで、年に一度は贅沢な温泉旅行に招待してくれたり、高価な抗生物質の試供品を束にしてくれたりしたのだそうだ。





とにかく多才多趣味な母だったので、男女を問わず友人も多かった。



だから16代もきたさんも、こんなに大変な家に嫁いで来た「発展家」の母が、嫌気がさして実家に帰ってしまう事を本気で心配していたようだ。



「九子ちゃんが出来て、おかあさん変わったんだよ。」

ときたさんに言われた。



「はじめてどっしりとこの家に腰を落ち着ける覚悟ができたんじゃないのかな。」





母が亡くなる少し前、ふり絞るような声で私に言ってくれた母の言葉が突然思い出された。



「九子~お、あんたに会えて良かったよ~!」



なんとなく私も同じ言葉を母に返したけれど、今思い返すと、母が言ってくれた「会う」と言う意味は、単なる「会う」ではなくて、一期一会の出会い、つまり邂逅・・という意味で言ってくれたのではなかったのか・・・と都合良く解釈したくなる。





そうだったら本当に嬉しい。

もちろん確かめる術はもうとっくにないのだけれど・・・。




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母を亡くす・・・・懺悔 その2・・・・ [<父を亡くす、母を亡くす>]


コンデンスミルクの一件もあった。



1パック500円前後の苺は年中スーパーの店先で見うけられるようになったが、我が家では9人家族 だった頃から、バナナなんかで量を増やして1パックか1パック半を家族で分けて食べていた。



母がもっとずっと元気だったその頃は、当然のように自分は少なく取って良いところは子供達にたくさ ん分けてくれていた。



ところが食道癌の手術を終え、長男、次男、三男と順番にうちを離れて行き家が寂しくなる頃から、母の様子が変わり出した。



自分はもうたくさん食べられないからという理由で、料理でも果物でも家族の誰より最初に一番真ん中の良い所を自分用に取り分け始めたのだ。



むろん小食の母の事だ。そんなに大した量を取る訳ではない。



でも私にはなんとなく不満だった。



あの、私が大好きだった、自分の事は後回しにしていつも人に尽くしていた母は一体どこへ行っちゃったの?年寄りになるって恐ろしい。ああいうのを死に欲っていうのかなあ。





母は苺にたっぷりのコンデンスミルクと小量の牛乳をかけて食べるのが好きだった。



他のものは食べられなくても、好きな苺やスイカなら結構な量食べる事を知っていた私だが、母には確 かに真ん中のところは分けたけれど、母がすぐに食べ切ってしまうような量しか取らなかった。



体力が無くなって苺を一人でつぶせなくなった母に、苺をつぶしてやる事位はしたけれど、大好きだったコンデンスミルクも、そんなにたっぷりかけた訳ではない。



すると母は「コンデンスミルク、もっとちょうだい。」と言って、私がかけた同じ位の量を追加した。



このままじゃあ、コンデンスミルクだけでも結構な出費だわ。





父が亡くなった頃から、母がチューブ入りのコンデンスミルクをちょくちょく吸っている所を見かけるようになった。

考えてみれば、コンデンスミルクは母にとって貴重な栄養源だったのだ。

命綱だったとも言える。



それなのに私は、汚い!年寄りって、だから困るわ・・と呆れ果てながら、新しいコンデンスミルクを冷蔵庫にしまいこんだ。



そうする事がどんな結果を招くのかなど考えもせずに・・・・・。





食べ物の事以外でも、母に優しく出来なかった事が心底悔やまれる。



母はしきりに足の裏を揉んで欲しいと訴えた。



外で草むしりや畑仕事をするのが生きがいで、お日様を浴びてさえ居れば機嫌の良かった母だったが、大腿骨骨折以来ほとんど外へ出ることも無く、北向きの昼でも電灯が必要な家の中で、面倒くさがりの娘が昼間でもかまわずカーテンを閉めたままにしているのを、それでも元気な日には、手押し車を持っていな い方の手で、元気だった時よりも確実にゆっくりと、黙ってカーテンを押し開いては、飢えたように太陽の光を求めていた。



そんな母の仕草に込められた太陽を浴びたいという切実な気持ちすら、鈍感な私は当時わかろうともしなかった。



だから母の足は、むくみも手伝って白くてぽっちゃりしていた。

もともと22センチにも満たない可愛らしい母の足だった。

他が骨と皮ばかりだったから、すべすべした白い足は本当に綺麗だった。



母が亡くなった時、高校生の娘二人はとっさに母の手足の指に真っ赤なマニキュアを塗った。

80年近くも生きたとはとても思えない少女のような小さな足に、マニキュアは本当に良く似合った。





その足が、あれほど動くことの好きだった母の足が、思うように動かせなくなってからと言うもの、母は、足がだるくて重ったるいから揉んで欲しいと口癖のようによく訴えた。



「たのむわ、九子。ほんのちょっとでいいんだよ。」



母の「ちょっと」は、文字どおりそんなに長い時間では無かった。

ほんの3分か5分もすれば「はい、ありがとう。」という返事が返って来る事がほとんどだった。



たまに、ごくたまには、10分か15分位返事がないこともあった。

返事が聞こえないと、私は勝手に打ち切った。



今から思えば、それが15分だろうが30分だろうが、思いきり気の済むまで揉んでやりたかった。



それなのに、私のしたことと言ったら・・・。



一日に何度も頼まれるし、特に夜中起きたときに頼まれるのがしんどかったので、足裏マッサージ機を買ったのだ。それも、ネットで安く売ってる奴だ。



一応安い割にはクチコミで評判の良い機種だったけれど、痩せこけた母には機械の揉み方は強すぎたのだろう。

一度使ったきりで、「もう、たくさん。」と言った。



せっかく買ってあげたのに・・・。まったくもう、贅沢なんだから・・・。



母が亡くなってから、自分で試してみた。

確かに母が言う通り、そんなに具合の良いものではなかった。





母が亡くなって呆然とする私の脳裏に真っ先に浮かんだ事、それは、「これは仏様の罰に違いない。母を大切にしなかったバチが当たったんだ。」という事だった。



今まで我が家は本当に順調だった。順調過ぎるくらい順調だった。



母の食道癌の手術も、父の85歳を過ぎてからの腰の手術も、子供達の進学だって、みんなうまく行った。

これはひとえに、仏様が守って下さっている証拠だと長い間私は思いこんだ。



でも母が、かけがえのない母が、死ぬはずの無かった母が死んでしまった。

きっと私の親不幸が、仏様を怒らせてしまったに違いない。



母を亡くしたショックの中、仏様にも見放された気がして私は途方にくれた。





毎日、悲しくて切なかった。



でも今から考えてみると母が亡くなって数週間というもの、一番私が心を痛めていたのは、せっかく父が80歳まで働いて貯めてくれた年金が、母を粗末にしたせいで全く入って来なくなってしまったという事実だったような気がする。





父が払っていてくれた固定資産税その他もろもろの税金に加えて、薬学部志望の長女と次女のこれからの学費を、一体どうやって捻出して行けばいいのだろう。



うつ状態の妄想のひとつに「自分は一文なしになってしまった。」と思い込むというのがあるそうだが 、それを差っ引いても、これからの生活に対する不安は止めどなかった。





本当に私は、生まれてから今まで、父母の溢れるほどの愛情の中で生きてきた箱入り娘だ。

欲しいものはすぐに手に入る。がまんなどしたことも無い。お金の心配など皆無だった。





母の死に装束に、もうちょっといい着物を着せてあげてと義姉に言われた。

「おかあさんあんなにお洒落だったんだから、そんな寝巻きじゃ可哀想。どうせ焼いてしまうのだから高いものでなくていいから、お母さんの友達が見に来ても恥ずかしくないものを着せてあげなくちゃ。」



そんな時でもなんだかもったいないような気がしてしまう情けない娘は、初めて母の桐の着物箪笥を開いてみた。



母に着せる着物はすぐに決まった。

少々薄手だったけれど黒い縞が入った粋な柄物の着物だった。

娘たちのしてくれたマニキュアにも不思議に良く合った。



何気なく隣の箪笥を開けてみてびっくりした。

上から下まで15ほどある引き出しには全てにびっしり私の名前が書いてあり、、手を通した事も無い着物がきれいに畳まれて入っていた。



母は勝負事が大好きだった。

スポーツではプロレス。一人で騒いでテレビにかじりついていたし、野球も巨人が負けると不機嫌だった。



そんな母がもうひとつ凝っていたのが株だった。



たぶん株で儲けた時に、これだけの量の着物を私のために買い込んでいてくれたのだろう。



たった一枚。薬大の卒業式やM氏とのお見合いの時に着た、見る人が見ればいかにも高そうな振袖だけが、唯一私が手を通し、知っていたものだった。



もちろん私はただ着ただけ。脱げば脱ぎっぱなし。



きれいにきちんとたたむのも襟やそでをベンジンで拭くのもみんな母がしてくれたから、着物の在り処などもちろん知る由もなかった。



「あんたに着物たくさん買ってやってあるんだよ。」



「そんな余計なもの勝手に買わないでよ!」



母が亡くなるこの日まで、箪笥を開いたことも無かった。

むろんお礼のひとつも言った事は無い。



見覚えのある母のしっかりとした字で自分の名前がいくつもいくつも書き連ねられた引き出しを眺め、ついさっきまで「焼いてしまうのだから母に着せるのは新しい寝巻きでいいんじゃないの。」などと考えていた罰当たりな自分に腹が立って腹が立って、勝手に涙があふれ出て来て困った。



そう。一人っ子の私は、全てにおいて愛情を与えられる事に慣れすぎていた。



なんでもいざとなれば、お金も愛情も湯水のように注いでくれる両親が居た。

そうしてくれるのが当然だと思っていた。



両親を亡くしてみて始めて、今まで当然と思っていたものがいかに当然ではなかったのかをまざまざと思い知らされた。



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母を亡くす・・・懺悔 その1・・・ [<父を亡くす、母を亡くす>]


懺悔と書いて「ざんげ」と読むのはキリスト教で、仏教の場合「さんげ」と読むのが正しいそうである。とにかく、懺悔の無い宗教は邪教であると活禅寺の無形大師もよくおっしゃった。



「過去に犯した罪を神仏や人々の前で告白して許しを請うこと」と広辞苑にある。



これから書く事は、亡くなった母には知られたくない事だ。

反面、そんなことは母には最初からみんなお見通しだったかもしれないとも思う。



たぶんそうに違いない。

知っていながら、「あの子のすることなんて、所詮そんなもんだよ。」と笑っていたのかもしれない。



親思う心に勝る親心。



親が遠くに行ってしまってはじめて、切実にその通りだなあと肯(うなず)かされる言葉である。





父が亡くなって、私がいの一番に頑張らなくちゃと思った事、それは節約だった。

父が居たときは、食費から何から、みんな父頼みだった。



もちろん、現在私大歯学部卒業を控えた長男の学費は、すべてと言って良いほど父に払ってもらっていた。



その父が、突然亡くなったのである。



当然、80才まで市議会議員として働いてくれた父の退職金代わりに入っていた年金はお終いになる。

その代わり、今度はその半分の金額が、長年議員の妻として苦労した母に振り込まれるのである。



父は亡くなる少し前、夜間せん妄というのをやった。

しかしそうなる直前、極めて明瞭な意識の中で、遺言とも言うべき言葉を家族に残していったのだ。



その中に、「薬剤師は女の子には良い職業だから、下の娘も薬剤師にしろよ。」という一言があった。



下の娘は日大付属高の一年生だ。



そんなにお勉強が出来る訳ではなかったので、せめて付属高推薦で日大の簡単な学部にでも入れて貰えば恩の字と親は思っていた。



それが突然、「おじいちゃんの遺言だから私も薬剤師にならなくっちゃ。」と言い出した。



上の娘の方は最初からなんとなく無言のプレッシャーを感じてくれたのか「薬屋の娘だから私も薬剤師になるんだよね。」と、同じ日大付属高に入って、現在三年生である。



そんな訳で二つ違いの娘が二人、薬剤師を目指してくれる事になった。



本来ならば「有難い。」と無条件で感謝すべきなのだろうが、昨今の薬学部事情と、我が家の経済事情を考えた時、そう楽観的になってはいられない。



ご承知の通り、薬学部は最近6年制になった。



実は長女が日大付属高への進学を決めた時、私はしめしめと思った。



日本大学は総合マンモス大学である。もちろん薬学部もある。

受験するよりはるかに有利な付属高推薦枠で日大薬学部の入学が決まってしまえば、こんなに楽な話はない。



もちろんこの時、薬剤師にするのは上の娘だけ・・と思っていた。



それが下の娘も・・・という事態に直面して、この考えはあっさりと捨てざるを得なくなった。



日大薬学部は、なぜか知らないが同レベルの私立薬大と比べても学費が高かったのだ。

その上、訳のわからない寄付金というのもあった。



今の段階で長女は浪人ほぼ決定、次女は絶対に現役でと言うことだから、つごう5年間は二人一緒に薬大通いだ。



安い国立大学人気はますます高まるから、たとえ一浪したとしても国立へ入るのは至難の業だ。



となると、二人が同時に私立の薬学部という可能性がかなり高い訳で、その場合の二人合わせた年間の学費は、長男の学費に匹敵する。



もちろん私は、どちらか一人分位の学費は、母の年金、すなわち父の遺族年金で出してもらうつもりで居た。



「それにしても、母の年金だって父本人が貰っていた半分しか来なくなっちゃう訳だから、食費も切り 詰めて緊縮財政にしなくっちゃ。」



ケチな私の頭の中に真っ先に浮かんだ考えはそれだった。





母は食道癌の手術の後、食が細くなった。

一度にたくさんは食べられないので、ちょこちょこ間食したりして、それでも元気なうちはなんとか必要なカロリーは取っていたようだ。



癌はそんな訳で見事に取り除いてもらったのだが、思わぬ伏兵が母を苦しめた。



めまいである。

術後すぐに起こった理由のわからないめまい。

先生には、体重がせめて30キロになれば、きっと良くなると思いますと言われるばかりだった。



もともと太れない体質の母が、あと5キロ6キロ太るなんて奇跡に近かった。



おととしの10月に、たまたま入院していた父の見舞いに行って、病院の玄関で転んで大腿骨骨折をして、母は2ヶ月以上入院することになる。



晦日(みそか)に帰って来た母は、今までのように外出することもままならず、ほとんど一日中寝ていて、食事の時だけ隣の食堂へ移動するのがやっとの生活になった。



そうこうしているうちに父が亡くなり、私にもかなり時間的余裕が出来た。



その頃母は、パック入りの白粥が食べたいと言った。

スーパーでひとつ170円くらいで売っていた。



「あのおかゆはどっか違うんだよ。」



M氏が買って来てくれた。母はとてもおいしそうに頬ばった。



私も味見してみた。

うちで炊くのよりもあっさりとしていたが、そんなに違うようには思えなかった。



「またあのおかゆ、買って来てくれないかなあ。安売りで売ってるやつでいいんだよ。」

私はその170円をケチった。もったいないと本気で思った。



「安売なんてしてないんだよね。」の一言で片付けた。



一応新潟こしひかりの2キロ入りを買った。

それを一合だけといで、圧力鍋でおかゆを作った。



たっぷり出来たおかゆは、母には3日分以上あったと思う。

私には十分おいしく思ったが、母はあまり嬉しそうではなかった。

すぐに「もう、たくさん。」と言った。

私は構わず、おかゆがおしまいになるまで、同じおかゆを出し続けた。



この「もう、たくさん。」という母の言葉は、母が亡くなるまでの間、幾度と無く耳にすることになる。



最期は、どんなに食べたい物でさえ、一口、口に入れるともう受け付けなくなった。

「もう、たくさん。」

最期の最期まではっきりしていた頭で、母はこの言葉を繰り返した。



母がかなり弱ってきて、ようやく事の重大さに気が付いた私は、始めて悔いた。

あの時母に、1パックたったの170円のおかゆを毎日食べさせてあげていたら、今頃まだ母は元気で ここに居たかもしれない。



白粥の事は、ほんの一例だ。

一番世話になって、一番大事にしなければならなかったかけがえの無い人を、私はずっと粗末にし続けた。




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母を亡くす・・・・癌を生き延びた母・・・・・ [<父を亡くす、母を亡くす>]


母が癌宣告を受けた更に2年程前、はじめての異変に気付いた母も私も、決してそれを深刻に受け止めなかった。



軽井沢の夏を惜しむような人々の雑踏を見下ろすとあるレストランの中、母が珍しく食事がのどに痞えたと言ってトイレに立った。



子供達を父とM氏に任せて、母と二人のショッピングなど何年ぶりかの事だったので良く覚えていた。





それからも母は何度かそんなことを繰り返して居たようだ。

特におにぎりやのり巻きなどが食べ難かったらしい。





私達が気が付いた頻度としては半年に一度位だったのでさして気にも留めずにいてしまったのだが、本当のところはどうだったのだろう。





持ち前の「大丈夫!大丈夫!なあんて事ないんだから・・。」という母の勝ち気な性格と、70歳になっても気力体力は我が家一番で、母が居ないと夜も日も明けない我が家の中で、肝腎要の母がまさか癌・・しかも比較的性質(たち)の悪いと言われる食道癌だったなどとは一体誰が想像出来たろう。





いつも思うことだが、あの母が一緒でなかったら、私は決して子供を五人も生まなかった。いや、生めなかった。





甘やかされて育った娘は、産院から帰るなり、夜の授乳の二回に一回は、母にして貰っていた。

むろん掃除やおむつその他の洗濯は、いつもどおり母の役目だった。





夜の授乳がなくなって、子供達が活発に動き回って大変な時期になると、やんちゃな子供達の定席はおじいちゃんおばあちゃんの隣に移る。





夜寝る時だって、私は2年おきに生まれた小さい子ただ一人の面倒を見るだけ。

残りの大変な一団は、みんな二人のお世話になった。





そもそも娘が嫌がるきつい汚い仕事を好んで引きうけてくれる母だった。





そう言えば母の癌がわかった半年ほど前、母の全身に得体の知れない皮膚病が広がった。





庭の側溝にたまったドロドロの堆積物を掃除していた翌日に発症したので、アレルギー性のものかと思っていたがなかなか治らず、医者からはライ病の薬(最近になって難治性の皮膚病への適用が認められたらしい)まで出る始末・・・。



その後癌がわかったら、医者に「やっぱりねえ。」と言われたそうだ。



癌になると全身に治り難い皮膚病ができるのは良くあることなのだと言う。

免疫力が落ちている証拠なのだろうか。





道理で母の皮膚病は、手術の後ぴったり出なくなった。





とにかく母の喉の不調が、さすがの母にすらただ事ではないと思わせる程度に進行するまで、そう言う訳で2年近くも経過してしまったことになる。





母は自分の目で、耳で、癌宣告を受けた。





母から「やっぱり癌だって。」という電話を受けた時、誰より動揺したのはこの私だった。





何もかも母に頼りきって生活していた私。今、母が居なくなったら一体どうすればよいのだろう。





母の方はいつも通り「どうってことないよ。」と言いながら、淡々として入院のために新しい下着やパジャマを買いに出かけていた。



よくこういう時に落ち着いていられるなあと、わが母ながら感心したものだ。





「良くこの段階で助かったねえ。」M氏のいとこにあたる胃腸外科のN医師は、今でも当時の母のX線写真を見ながら感慨深げに言う。

母の食道癌はステージⅣ位、つまり末期に近かったからだ。 (☆注:厳密には、転移の無い場合はいくら大きさが大きくてもステージⅢにとどまるようです。)



N医師の紹介で、母は長野市民病院のM医師に手術して頂くことになった。





M医師は、母にとって幸運なことに内視鏡手術の第一人者だった。



もともとギスギスにやせていた母である。

身体に大きな傷跡を残すような従来の食道癌の手術法では母の体力が持たなかったかもしれない。





母は食道のほとんどと胃の四分の三を摘出した。





ほんの数センチの穴が4箇所ほどと体側面に内視鏡を入れるためか15センチほどの傷口があっただけの母の体内から取り出された癌は、直径5センチ程もあったろうか。



しかし見事に上に盛り上がっていて転移も見られず、放射線も抗癌剤も使わないまま母は無事に退院の日を迎えた。





そのたった一度の手術で、母は命拾いした。



手術から5年が経過して、「あなたはもう癌で死ぬことは無いでしょう。」とM先生に言って頂いたと聞いた。





食道癌の5年生存率は、現在でも多分2割ほどと言われている。





あの時見せてもらった癌の切除部位をまざまざと思い出す。

黒ずんだいかにも異常な肉の塊が、夏の雷雲のように上に上に盛り上がっていた。





あれを一目見た時一応仏教徒の私は、2年もの間母の体内で、正常細胞を突き破って全身に広がろうとするガン細胞の力を鎮めて、上に盛り上げて母の命を守って下さったのは、絶対に仏様の力に違いないと思った。





運の良いことを自認して来た私であるが、実は祖父の16代十兵衛が長年長野市議会議長をしていた関係で、活禅寺(←ここ)が宗教法人になる時に何かお世話をさせて頂いたというご縁があるらしく、もしかしたら我が家の運が良いのは、16代のお陰で、仏様に手厚く守られているからではないかと事ある毎に思うようになった。





こうしてまた、母の命も奇跡的に助けて頂いた。





そして更なる幸運に出会う度に、その思いはだんだん確信に近いものへと変わって行くのだった。




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母を亡くす・・・千の風になって・・・ [<父を亡くす、母を亡くす>]


悲しみに暮れる時にひとつだけ、肝に銘じなければならない事がある。





母を亡くすことは、誰もが必ず一度は体験しなければならない事である。

いわば人生の通過儀礼のひとつにすぎない。





その体験を若い時にするよりも、年を経てからした方が楽である事は言うまでもない。





母の死を体験せずにすむ人は幸福かと言うとそうではない。

それは母よりも先に自分が死ぬ事を意味するからだ。





逆縁(さかえん)と呼ばれるこの体験をせねばならない親も子も実に不幸である。



特に子供がすでに父親母親となっており、つれあいや幼いそのまた子供達もがその不幸の輪に組み込まれた時はなおさらである。





父母が少なくとも私がこの年になるまで生きていてくれた事。

そして、父、母と年の順に亡くなって行った事。



悲しんでばかり居る前に、それらにまず感謝せねばならない。





大学時代からの親しい友人が、「千の風になって」のCDブックを送ってくれた。千の風になって CDブックの画像

大晦日の紅白歌合戦を見るともなく見ていたら流れてきたこの歌は、作者不詳の英語詞に日本人が曲をつけたものだと言っていたが、作曲者は新井満氏だった。





本の後ろには新井氏の長い解説があり、まずこの詩歌は新井氏の弁護士の友人に捧げられたものであるという事だった。





弁護士の妻は30代で乳癌にかかり、40代で脳腫瘍を発症し、2度の大手術ののち48歳で亡くなった。後には3人の子供達が残された。





この悲しみの一家に対し、一体どんななぐさめの言葉が見つかろう。

そこに偶然飛び込んで来たのが、「千の風」の詩だったという。





天国からの、死者からの手紙という形式に大変驚いたという新井氏。



この本のお陰で、少し前に書いた

「散る桜、残る桜も散る桜」という歌が、良寛和尚の歌だった事も判明した。





実はこの日記をあらかた書いたところで、紅白で聞いた「千の風になって」が、オリコンチャート一位になったというニュースが流れてきた。





クラシック歌手の歌が一位になるのははじめてとかで、テリー伊藤氏が「日本人は亡くなった人はお墓の中にいると考えるから、そういう考え方は目新しいですね。」とコメントしていた。





だが考えてみると、昔から日本人は魂があらゆるものに宿ると考えて来た。





あらゆるものに命があるから、「ものの命を大切に」と小学校で習ったはずだ。



そう考えると、とりたてて目新しい考え方ではない。





亡くなった人の魂は、ずっとずっと生き続けて、風の中にも川の流れの中にも土の中にも、ありとあらゆる物の中に存在し、自分や家族を片時も離れずに守ってくれる。





そして自分の魂もまた、時が来れば朽ちていく肉体を離れて、宇宙のありとあらゆる物に形を変えて遍満(へんまん)する。





遍満するとは「あまねく満ち広がること」だ。 





これぞまさに私が学んだ仏教の考え方そのもののような気がする。




★これを書きながらでも、私の心は揺れていました。
人生の通過儀礼・・・などと強がりながら、どうにもならない悲しみが襲ってきます。

自分の心が揺れている事を、誉めてあげてください。
落ち込みっぱなしではありません。必死に立ち直ろうとしているのです。

そして落ち込みが長くなるようなら、どうか医者に行くのをためらわないで下さい。
医者に行く目安は
「母を亡くす・・母の死とうつ病・・」をお読み下さい。



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母を亡くす・・・・母の死とうつ病・・・ [<父を亡くす、母を亡くす>]


母が亡くなって一ヶ月と少し。

最初の衝撃は大分薄まったものの、まだ元気と言うには程遠い。





ずっと書いてきた九子のドジ日記だが、しばらくの間 母の死 を中心にして暗い色合いになることをお許し願いたい。





まずは自分が一歩歩みを進めるため。

そしてもしかしたら大切な人を亡くされて悲しみの淵にいらっしゃるどなたかのよすがよすがになればと思って、独り言を書き進めることにする。





そんな訳でしばらくコメントはお休みさせてください。





ウツは手強い。したたかで、侮り(あなどり)難い。

数十年間ウツとつき合って来た人間の感想だ。





「内因性」の、つまりあんまりウツになるほどの理由が無いのにウツを繰り返してきた私が、今回たぶんはじめてひどい「反応性」のウツになった。





反応性のウツと言うのは、誰が考えても悲しいと思う状況でウツになることだ。

親しい誰かを亡くした時、万人誰もがきっと経験するであろううつ状態である。





私は、半年ばかりの間に父と母を亡くした。



父は87歳、母は79歳だった。





そう。たぶん年に不足はなかった。

少なくとも昨年までの私なら、誰かれ構わずそういう心ない言葉を投げかけていたはずだった。



「まあまあそのお年なら、天寿をまっとうされた訳ですからねえ・・・。」





親を亡くすと言うことは、思いのほかずっしりと重たいものだった。

特に一人っ子で、父母のかけてくれた愛情の大きさなどしっかりと受け止めた事のなかった私にとっては・・・。





息子や娘にとって親を亡くすと言うことは、いくつになっても悲しい事だ。





もちろん年若いうちに親を亡くされた方の衝撃の大きさと言ったらいかばかりかと思うし、その苦しみの程は私などには計り知れない。





いつか読もうと思っていたらこんな事になってますます生々しくて読み難くなってしまった リリーフランキー の「 東京タワー」でも、彼がその軽妙な文体に辿り着くまでに流した涙の量たるや、一人っ子という共通点はあるにせよとてもとても私なんかの比ではなかろう。





しかし息子や娘が成人して父親母親になり、時には祖父や祖母になっていたとしても、たぶん親との別れはひどく悲しい事に違いない。





特にそれが、まさか亡くなるはずがないと思っていた人との思いがけない永遠の別れだったとすればなおさらである。







父を看取った時、涙は余り出なかった。





父との別れより、母との別れの方が悲しいと言う人も居るが、それはそんなに簡単に言ってしまって良いものではないと思う。





私の場合、父の時はどこかで覚悟があった。

父の方が8つも年上だったから、一応母よりは先にい逝くものと思って看病した。





だから自分の看病にある程度満足出来た。





でも、母の場合は違った。

虚を突かれたとはこの事だ。





父と母が並んで寝ていた時、父の事を優先する余り、母に何か言われるとうるさいなあとすら思った。





父が亡くなって、それではすぐにこんどは母の番だとばかりに看病出来たかといえば、それはNOだ。



父と違い、内臓のどこにも異常のなかった母であった。だから元気で当たり前と思っていた。



まさかこんなに早く死なれるとは思いもよらなかった。



あんなにあんなにいつも頼ってばかりいた母だったのに、亡くなる前の何ヶ月、母のことはいつも二の次だった。



世話ばかりかけた母だったのに、何も出来ずに逝かれてしまった。



後悔の思いは、私の心を閉じ込めて、どこへ向かせる事も許さない。







心とは不思議なものである。

どこにあるかすらわからないあやふやなものでありながら、肉体を支配し、行動を制約する。



心は、いつも流れ続けていなければならないもののようだ。

どこか一点に留まって動かなくなると、心は萎えて、肉体にまで影響を及ぼす。





大切な家族を亡くした時大事なことは、自分がうつ状態にあるか否かの把握であると思う。





大切な人を亡くしたら、皆同様に切なく、悲しい。





しかし、それが果たして病的な状態であるかどうかは最終的に精神科医の判断を仰ぐわけであるが、

もしそれが反応性のうつ状態、つまり うつ病 であるとしたら、苦しい症状のいくつかは薬で楽になる可能性がある。







たとえば毎日眠れない、眠りが浅い、特に朝方早く目覚める。





たとえば、いつもなら楽しめる事が楽しめない。





たとえば、人に会うのがおっくうだ。





たとえば、一日中気分が滅入って気持ちが重苦しい。





たとえば仕事に手がつかない。





たとえば亡くなった家族に申し訳なくすまない気持ちで胸が痛む。





たとえば自分は弱い人間だからこんな状態からすぐに抜け出すのは無理だと思う。





たとえば、家族の死によって金銭的に不安で不安でたまらなくなる。





たとえば、自分がいつまでもこんな風だから家族がばらばらになり、せっかく今まで築いてきた生活ががらがらと音を立てて崩れそうで怖い。





たとえば、自分がバカになってしまったようにいつもは簡単に出来る事をするのに時間がかかる。





たとえば自分と家族の将来に対して、悲観的にしか考えられない。





たとえば食欲がない、食事が美味しくない。性欲も衰えている。





たとえば反対にいらいらしてつい食べてしまう。



たとえば身の回りをきれいにするのもおっくうで、風呂にも入らない事がある。





たとえば何もする気が起きず、ただ一日中ふとんをかぶって寝て居たい。





そしてこれらの症状が、もう2週間以上続いている。





もしそうならば、あなたは家族の死をきっかけにしてウツ状態に陥っている可能性が高い。



そうであれば、あなたは医者の薬を飲むことによって少しは楽になれるのだ。







うつ病では、毎日、いや一日のうちにすら波がある。

朝方から午前中が症状が強く、夕方から夜になると楽になるというのが一日の傾向のようだ。





毎日の波、つまり良かったり悪かったりは予測不可能だが確実にある。





良い日と悪い日の差は私の場合驚くほどである。



良い日はほとんど普通と変わらない。人に会うことも難なく出来る。人と普通に話が出来る。





ところが悪い日となると、朝から何をする気もなくて、ただただふとんをかぶって寝てばかりいる。





人間健康な時には、いくらなんでもそう寝てばかりいられないと思う。

ところが ウツ になると、一日中でもただふとんにくるまってじっとしている事が出来るのだ。いや、じっとしていたいのだ。





自分の心と身体のエネルギーを最小限に抑えるにはそれが一番と身体が知っているようだ。





大事なことは、かなり状態が良いように思えてもうすぐ治りそうな日があったとしても決して油断してはいけないという事。





あわてて会社に出勤すると痛い目に会う。





良さそうに見えて、ある日ぐっと落ちる。これは辛い。





反対に辛かった日の翌日は、かなり楽な日という事も多い。

もちろん治るわけではない。





でも、確実にあるこの波のお陰で、少し良くなればこういうことも出来るようになるのかな、こういう考え方も出来るようになるのだなと前向きになることは出来る。





たとえば幸運にもあなたを苦しめていた原因が取り払われたとする。

もちろん亡くなった家族が返って来てくれるはずはないが、あなたの亡くなった家族への後悔の思いが、何らかの原因で取り払われたとしよう。



亡くなった人があなたを心から許してくれると信じられたとしよう。





それならあなたはすぐに元気になれるか?



答えは否である。





うつ病のいやらしさはここにある。





もしもうつ病になった原因の不安や後悔が取り去られても、いったん症状として出てしまったうつ病は時間が来ないと治らない。





もちろん薬で楽にはなれる。でも、治る事はない。





うつ病という症状が何週間、何ヶ月、もしかしたら何年続くかは、医者であっても予測は不可能だ。





あなたが若いよりも、もしかしたら老年期に近い方が、もしかしたら更年期と言われる年齢にあたっていた方が、うつ病の治りは悪いかもしれない。





精神科医は誰でも言う事だろうが、うつ状態の時に無理は禁物だ。

動ける日は動いて、動けない日は一日寝ていればよい。





比較的楽に動ける時間はきっとあるから、その間にしなければならない事をやっておく。

まあ、そんなに言うほど簡単なことではないのだが・・。





私の場合、一番気が進まないのは大勢の知人の中に入ることだ。



だからそう言う場所へは極力行かないようにする。





悪い日はちょっと無理すると自分のエネルギーが急激にしぼむのがわかる。



だからエネルギーが減る事は極力避ける。





うつ病の時は身体が疲れるのも事実だが、人前に出ないですむ身体を使う家事、たとえば冬の長野には欠かせない雪かきなんかは、身体が温まって却って気持ちが良かったりする。





もちろんこれは比較的調子の良い日の場合だ。





辛い日には、不眠、将来に対する獏とした不安、自分がこつこつと積み上げて来たものが突然崩れてしまうという妄想、いつも自分自身を叱責し続ける声、そして笑いさざめく周囲に対するいら立ち。



そういうさまざまな事が一度に押し寄せてきて何もする気力がない。いや、何も出来ない。



だから、ふとんをかぶって一日中寝て居たい。





でも毎日の生活がある。



だから少しでも楽になるために薬を飲む。

それが現在の私だ。





飲んでいる量は 抗うつ薬の目一杯。普通量を超えて処方してもらった。





この量でも、落ちる時は落ちる。





当たり前だ。毎日気分はころころ変わるのに、薬の量はいつも同じ。

明日の気分を予想して薬を飲める訳ではない。





母を亡くす事で辛いことは多々あるが、一番情けないことが自分の処方箋を自分で調剤出来ないことだ。





母が居たときは母の処方箋は私が、私の処方箋は母が調剤した事にして保険請求出来た。





それが一人薬剤師となった今、自分の処方箋は自分で調剤できない決まりなので他の薬局へ持って行って調剤してもらわなければならない。







私の病気は軽症躁うつ病だ。躁うつ病と言っても、幸運な事に躁病にはなった事はない。うつ病だけを繰り返すタイプだ。





躁うつ病では、躁病がある方が病気が重いし、強い抗うつ剤を使うと躁転してコントロールし難い分、薬の選択も難しい。





私のウツは繰り返しやすいので死ぬまで気分調整薬を飲むが、躁病がないので抗うつ薬もたくさん飲めるし何より薬が効きやすいのでとても有難い。





しかしこれからは毎月一回は自分の処方箋を調剤してもらうために他薬局へ出かけて行かねばならない。



しかも薬をもらうのに四千円もの大枚をはたかねばならないのもはじめての経験だった。

みんな母が生きてさえいてくれたら、要らないお金だった。







こうなったのは誰のせいか?





母の体重は22~3キロをピークに徐々に落ちていった。





人間は物を食べないと死んでしまう。

幼稚園児すら知っているこの事実に、見事に無頓着だった私。





毎日見ている家族は病状の変化に却って気がつかないと言われるが、母の食欲が落ちて来た時、なぜもっと母の事に気を遣って積極的に栄養のあるものを食べさせなかったのか?





拒食症の女の子と同じ体重と言うことはわかっていた。

それなら、拒食症の女の子と同じだけの生命の危険にさらされているのだという現実に、なぜ目が向かなかったのか?





危機感がなかったと言えばそれまでだが、母の事をおざなりにして私は一体何をやっていたのだろう?





すべてはみんな、今となってはもう遅すぎる。

どうやっても母を生き返らす術はないのだ。



母を殺したのは、毎日看ていたこの私だ!





因果応報、いや、自業自得という仏教の言葉が、切なく苦しく私にのしかかる・・・。





☆何度も申し上げる通りうつ病と言う病気はいったんかかってしまうと時期が来るまで治りません。その代わり、必ず治る病気です。

心優しい皆様、九子の事はどうかご心配なく。




☆現在進行中の「母を亡くす」シリーズはしばらくの間カテゴリー<父を亡くす 母を亡くす>で継続して行く予定です。

 

中で「母を亡くす・・千の風になって・・」は少し気持ちが張り詰めている時に書いたものですが是非読んで頂きたいと存じます。



うつ病については、<番外うつ病編>もご覧下さい。




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