安心立命 [<坐禅、仏教、お寺の話>]
Kさんからの年賀状はその最たるものだった。
7~8年前まで、わが家のすぐ前でピアノ教室を開いていたKさん。
東京から引っ越されてすぐ、その行動力と明るさでまたたくうちに生徒さんを増やし、わが家の娘二人と
出来すぎ母も、いつのまにか彼女の生徒の末席に加わっていた。( ^-^)
出来すぎ母は小さい頃にピアノを習ったがすべて音感に頼っていたので、楽譜は特にシャープやフラットが増えて来るともう読むのがめんどうになる。
それでも年を取って暇が出来るとまた昔のようにピアノを弾いてみたいと思ったようだ。
その血を受け継いだ九子も同様に譜面を見ずになんとなあく弾いていて、母に言わせると「おっぽけばっかり弾いて!」と言う事になる。(そんな九子はピアノとは早々におさらばした。(^^;;)
おっぽけというのは、でたらめとか間違いとか言う意味の、これは稲荷山弁なのかな?
(今気がついたけど、もしかしたら語源は「大呆け」かも・・。)
Kさんはピアノ初心者でも「どうしてもこの曲が弾きたい。」というリクエストがあれば、その曲がなんとか弾けるようになるまで指導してくれた。
出来すぎ母も、「別れの曲」や「トロイメライ」を一丁前に弾く事が出来るようになった。
まあそんな訳で、Kさん御一家が大家さんの都合で三年ほどでここからそう遠くない別の場所に移って行かれるまで、Kさんは九子の数少ない友人の一人であり、わが家3人のピアノの先生であった訳だ。
九子がのけぞったのは、後から気付くと二年ぶりに届いたKさんからの年賀状の「脳死肝移植」という一言だった。
えっ?「脳死肝移植?信州大学病院で?」
Kさんはいつも元気いっぱいの人で、肝臓が悪いなんて一言も言っていなかったのに・・・。
早速電話して聞いた話はこうだった。
彼女は一番下のお子さんを生んだ時、C型肝炎に感染してしまっていた。
その後ずっと、ほとんど症状が出ないで済んでいたのだが、5年ほど前から症状が出始めて、肝硬変、肝癌へと進んでしまい、癌は肝臓全体に広がり、生体肝移植では間に合わず、肝臓全体の移植しか打つ手が無くなっていた。それが2010年の秋頃。
「来年のお正月は迎えられないかもしれない。」という余命宣告を受けながら、彼女は持ち前の勝気さで泣いても仕方がないと開き直って、前向きに、ひたすら前向きに、看護師さんに「何がそんなにおかしいの?」といぶかしがられるほど笑いながら毎日を送っていたそうだ。
「子供たちだって一番下がもう二十歳。ここまで生きてやればもう母親の責任も果たしたでしょ。」
彼女の強さはこういう割きり方だ。とても九子と同じ一人っ子とは思えない。
そういう前向きな気持ちが、確かに彼女に幸運をもたらした。
余命ぎりぎりの2010年の12月、肝臓の型が彼女とぴったりのドナーが現れたのだ。
そして7人の主侍医による23時間にも及ぶ手術が始まり、何度も生死の境をさまよいながらも、彼女いわく、「ベートーベンの生誕日に生まれ変われた。」のだそうだ。音楽にぞうけいの深い方は御存じだろうが、12月16日の事だそうだ。
幸い拒絶反応も起こらず、一ヶ月後にはもう退院して、長野から松本まで小型の酸素ボンベをひきづりながら受診を続けたそうだ。
そんなKさんのことは県下初の脳死肝移植ということでもちろん名前を伏せて地元紙やテレビでも取りあげられたそうで、見る人が見れば彼女だと言う事がすぐにわかる記事だったと言うが、九子は全然知らなかった!
そして彼女はこんな不思議な話もしてくれた。
彼女の肝臓は北の方から空輸されて来た男性の肝臓なのだそうだ。臓器はユニセックスなんだね。( ^-^)
そして移植手術中、彼女は不思議な夢を見ていたそうだ。
男性がどんな風に死んだのか、そして彼のお葬式の様子、それらが手に取るように見えたのだと言う。
そして麻酔からさめた時、彼女は彼女のものになった肝臓にこう語りかけたそうだ。
「よろしくね。縁あって私の身体の一部になってくれた肝臓さん、これからはずっと二人で頑張りましょうね。」
「もう一年経ったから、すっかり元どおり元気になったわよ。薬(免疫抑制剤)は死ぬまで飲むけどね。
お金はすっごくかかったけど、命もらったんだもの。信州大学(医学部)優秀よ。考えてみたら肝臓移植最初にやったの信大病院だったもんね。先生方みんなアメリカへ留学して研鑚積んでるの。東京の友達に、長野に居たから助かったって言われたもの。そんな普通じゃ会えもしない優秀な先生方がみんな私の主侍医になってくれて、今じゃ気楽に話せるんだもん。それだけだってすごい体験よ。」
「私のピアノのお弟子さんさあ、みんな優秀で信州大学医学部へ3人も入ったのよ。」
一流のピアニストになるような人は頭脳明晰じゃないと絶対に成れないというのが彼女の持論だった。
言われてみると確かにそうだ。10本の指を別々に動かすという離れ業は、とてもじゃないが九子みたいなとろい人間には出来るはずがない。
「入院してるとさあ、夜中に泣き声が聞こえてくるの。泣き声で眠れないって人も居る。睡眠薬もらう人も居る。だけどもうしょうがないじゃない。泣いてたって何も始まらない。そんなら明るく笑っていようって思った訳。」
これらの言葉から垣間見られる勝ち気で前向きで陽気な彼女の性格が、彼女の術後の免疫力を高めるのに大いに効を奏した事は言うまでも無い。
癌患者でも、前向きに生きる人の方が予後がいいってよく言われる。
だけど九子にKさんと同じ事が出来るかと言われたら自信が無い。
もちろん九子は必死に坐禅をするだろう。それによってだいぶ不安は小さくなるに違いない。だけど果たしてKさんみたいに達観できるだろうか。「子供も一番下が20歳になったんだから、もういいじゃない!」
そんな風に思えるだろうか?
九子は活禅寺で「安心立命」という言葉を習った。仏を信じて(坐禅をして)安心しきって、自分の使命をまっとうするという意味だ。
若い頃はなかなかわからなかった「自分の使命」だが、この頃なんとなく見えてきた。たぶん大きく外れてはいないと思う。
若い頃は別の事を自分の使命と思い込んだ時期があったが、それはやっぱり間違いだった。それが自然にわかってきた。
自分の使命はそんなに自分とかけ離れた難しいことの中には無いようだ。
そういうことがわかってくると、年を取るってまんざら悪い事ではないと思えてくる。
仏教では一期一会だの、会うは別れのはじめだの、今日と言う日が二度と来ないことを戒めることわざが多い。
Kさんみたいに人生を2回も味わうような体験はそうそう出来ないと思う。普通の人はたった一度の人生だ。
九子なんかはその人生もそろそろ先が見えてきて、とにかく死んでいく時に悔いだけは残したくないと思うようになった。
自分の使命はわかった。ならばその使命のために何をなすべきか。
今年はそんな事を考えながら過ごせたらいいなあと思っている。
年賀状2012 [<薬のこと、ダメ薬剤師のこと、家のこと>]
明けましておめでとうございます。ことしもよろしくお願い申しあげます。m(_)m
新年早々更新をさせて頂くつもりが、ふだん居ない子供たちがぞろぞろ帰って来て急に「九子さんちの大家族」になるとふだんの3倍ほどの仕事量になり、精も魂も尽き果てて長時間のお昼寝が必要だったり致しましてこんなに遅れてしまいました。どうかご容赦を。
さて、まず新年恒例の年賀状のお披露目から・・。
**************************************************************************************************************************
迎春
辛く悲しいことの多い一年でしたから、今年こそ明るい希望の年となりますように。
薬局の一番の収穫は、長年の謎であった元祖雲切目薬「一子相伝」の材料の中身がわかったことです。たまたま薬局にいらっしゃった薬科大学の先生が分析して下さいました。
また、雲切目薬が地元テレビで取り上げられ、今回は林家三平さんとお忍びで佐智子さんもおいで下さいました。
タウンページのCMに出てくる海老名香葉子さんが丹精込めて
整えられたおうちの中で、ムーミン一家のように仲睦まじく暮らしていらっしゃる様子が目に見えるようで、少なくとも「蛯老名さん家のちゃぶ台」返しは有り得ないと思います。
還暦を迎えたM氏は、娘二人の薬大の学費が肩にのしかかり、
夢に描いていたリタイアもままならず意気消沈しております。
息子3人もそれぞれの道を可も無く不可もなく歩んでおります。
今日も昨日と同じように生きていられる幸せをかみしめたいと思います。 平成24年 元旦
******************************************************************************************************************************
「一子相伝(いっしそうでん)の石」というのは、薬局の古い薬箪笥に入れられた得体の知れない石のことです。
古い安物の茶封筒に「一子相伝 シンジュ」と書かれて長いこと入っていましたが、それが代々の店主にしか伝えられなかった元祖雲切目薬の秘密の原料であったこと以外、まったくの謎でした。
その石は青みがかった灰色をしており、直径1cmくらいの小ぶりな石で、砂利みたいにたくさん入っています。触ると白い粉が指につく、チョークと石の合いの子みたいなたぶんもろい石です。
それが旧式の(B4)茶封筒の三分の二ほどあったのですが、九子が勝手に偉い学者さんと間違って、その上その人が「もっと入れろ、もっと入れろ。」と言っているのだと勝手に解釈して、その人の連絡先も訪ねずに100グラム以上を渡してしまったため、現在は茶封筒の半分くらいになってしまっています。
それでもすぐその後に偶然薬局においでになった帝京平成大学薬学部の鈴木重紀先生が、わずか5グラムほどをお持ちになったきりで長年の秘密を現代の精巧な分析の機器により解明して下さいました。心より御礼申しあげます。
m(_)m
石の中身はほとんどが亜鉛で、ごくごくわずか水銀が入っていました。
亜鉛というのは元祖雲切目薬の成分中に多量にふくまれています。たとえば硫酸亜鉛、たとえば酸化亜鉛、それらは雲切目薬の主要成分の一部です。
実は「ごくごくわずかの水銀」というのがミソなのです。
当時善光寺の近辺には郭(くるわ=遊郭)がたくさんあって、善光寺参りのお客さんや近隣の郭の無い地域からお客さんがたくさん来ていたそうです。(たとえば松本は武士の町なので郭などは無くて、松本からのお客さんも多かったとか・・。)
当然性病が蔓延するのですが、水銀は抗菌作用があるので性病、特に梅毒に良く効いたそうです。梅毒は目にも症状が出るため、目薬の中にごくわずかの水銀を入れた雲切目薬は目の梅毒の特効薬として珍重されたのではないでしょうか? 石のほとんどを占める亜鉛のほうはもともとの原料に混じってしまい問題ありません。 だからそれが、代々店主にしか伝えられてこなかった「一子相伝」の秘伝の石という訳です。
水銀は今ではその毒性のために医薬品に入れられることはなくなってしまいました。もしかしたら祖母は入れていたかもしれませんが、母は入れていなかったと思います。 考えてみると茶封筒の一子相伝の後に書いてあった「シンジュ」という言葉は水銀化合物を意味する「シンシャ辰砂」のことだったのかもしれません。
地元SBCテレビ(信越放送)では雲切目薬を特に良く取り上げて下さいます。
今回は長野市と松本市それぞれの名店を林家三平さんが訪ね歩くという企画で、長野市では笠原十兵衛薬局も取り上げて頂きました。テレビ局の方が「長野(市)といったら雲切目薬を取り上げないわけにはいかないでしょう。」と言ってくださったのが嬉しかった!
何しろ10年前は誰も知る人の居ない売れない目薬で、会計士さんからは「薬局閉めちゃったほうがいいんじゃないですか?」と言われる有様でしたから・・・。(^^;;
実は九子にとって三平さんはそんなに憧れる人でもないし(ごめん!三平さん!)、これがキムタクが来るとかだったら別だけど(^^;;、礼儀正しいまじめな青年が来て下さったという印象で平常心でおりましたが、最後のほうで大きなマスクで顔の大部分を隠しても唯一出ている目の美しさだけで只者でなさをすぐに感じるその人が来て下さった方がずっと心踊りました!
そう。当時週刊誌ではもう別れたとも報じられていた国分佐智子さんです。その日は東北大震災から一週間後。まだ東京でも余震がたびたびあった頃だったので、佐智子さんが不安がって急遽おしのびで取材に付いていらしたそうなのです。
佐智子さんとはほとんどお話しする暇もありませんでしたが、とにかく目だけで「すっ、すごい美人!」とわかるというのは並大抵ではありません。女優オーラというのでしょうね。
それから半年ほどして、実は実は安住紳一郎さんの「ぴったんこカンカン」のスタッフの方も来店して下さったのです。好感触だったのですが、小川村のおやきの取材で手一杯になって「今回はすみません。」という電話が来ました。残念!
林家三平さんの色紙を見て雲切目薬を買ってくださる方もいらっしゃるし、そんなお礼も込めてお手紙やら地元の果物やらをお送りするとそのたびにご丁寧なお心遣い頂いてびっくりします。
地元のぶどうを差し上げた時は、ご婚礼の引き出物のおすそ分けに預かりましたし、リンゴの時は三平さん直々にお礼のお電話を頂戴しました。 賢婦人で名高い母上様から乱れ一つない達筆でお手紙を頂戴したこともあります。
芸能界に詳しい方の口から、「林家一門は芸能界でも特別に義理堅い。」と伺ったことがありますが、こうやって直々に人と人とのつながりを大事にする姿勢を学ばせて頂けるのは光栄だったと思います。
来て下さったのがキムタクじゃなくて、安住さんじゃなくて、林家三平さんだったこと、感謝しています。
( ^-^)
賀状の通り、息子三人は三人三様の道を歩いております。
娘たちは試験に追われて大変です。
「この次いつ全員で会えるかわからないから、みんなで写真でも撮ろうか。」
と言いながら、結局いつも撮れずじまいです。
こうしてみると、子供たちと一緒に居られる間というのはわずか18年だけです。(都会だと22年でしょうか。)
最初からそれを考えて子育てが出来たら良かったけれど、後から気づいても遅いよって話です。
子供たちとはいつでも話が出来るという考え方は甘いのかもしれません。
今からまだ間に合うお父様お母様がた、どうかお子様が手元においでのうちにじっくりお話しておいてくださいね。( ^-^)
では皆様、今年もよろしくお願い申しあげます。 m(_)m
★長野県にお住まいの方々にお知らせです。1月 6日(金)SBCテレビ「3時はららら」で雲切目薬が放映されます。今回は芸人さんのX-GUN 西尾さんが来て下さいます。よかったらご覧下さい。
信じるということ [<坐禅、仏教、お寺の話>]
そのおじさんは、静岡県から笠原十兵衛薬局へやって来たと言った。車で4時間もかけて・・。
静岡県は長野県のすぐ隣なのだが、道路が整備されていないため郵便でもなんでも着くのに時間がかかる。
ところでこのおじさんという言葉、使う人の年齢によって対象の年齢層に幅が在ることに近頃九子は気がついた。
たとえば二十歳の女の子が使えば30歳以上くらいの男性をさす。
かく言う九子が使えば、どう考えてもおじいさんと呼ばれるような人。
ちなみに九子の言うおじいさんは、棺桶に半分足突っ込んでるような人だ。(^^;;
とにかくそのおじさんは、もう何度も雲切目薬を買いに来て下さっているらしい。(人の顔を覚えられない九子は、 あら、まっ!と思っている。(^^;;)
おじさんは関西弁とおぼしき言葉をしゃべった。
「関西の方ですか?」と九子は聞いた。
おじさんは静岡県から来たけれど、生まれは名古屋なのだと言う。
なるほど!静岡に移って何年経つのか知らないけれど、言われてみればおじさんの言葉は八丁味噌みたいに名古屋そのものだった。
おじさんは年に二、三度は必ず長野に来るのだと言う。その度に雲切目薬を買って下さるのだと言う。
「いやあ、女房がね、こっちにおるんですわ。」と言って、おじさんは善光寺の方向を指さす。
「ああ、近くにお住まいなんですね。」と九子。
「いんや。こんなに小さい壷ん中はいっちょっとです。」
善光寺の裏山、長野市内を見渡すところには納骨堂があり、春は桜が、秋は紅葉が死者たちの霊を慰める。
誰に話すともなく、おじさんは続ける。
「いやあ、わしゃあ大ばかもんなんですわ。あんないい女房を殺しちまって。わしが殺したんですわ、ひもで首しめて・・。」
「えっ?まさか・・。」
「いや、近所の人はみんな言っちょる。おまえは日本一の大ばか者じゃて。あんないい奥さんに苦労かけて、結局殺しちまったって・・・。」
おじさんは、自分が奥さんに苦労をかけて悲しませて、真綿で首をしめるように奥さんを苦しめて殺してしまったと言いたかったのだと思う。奥さんが亡くなったのは5年前だそうだ。
どういうご縁でか知らないがおじさんは善光寺の納骨堂に奥さんの骨を納めて、きっと命日と春秋のお彼岸にはきちんきちんと車を飛ばして4時間かけて長野にやって来るのだ。
なんだか九子は胸が熱くなった。
「おじさん、おじさんの思いはきっと奥さんに伝わってますとも。そうやってまじめにご供養されてるんだもの。」
口に出しては言えなかったが、おじさんにそう伝えてあげたかった。
すっかり気分が良くなった九子は雲切目薬8個ごとにプレゼントするおまけの百草丸を7個目でおじさんにあげた。(ケチッ!!(^^;;)
おじさんがそれでも嬉しそうな顔で帰って行ってしばらくしてから、九子はハッとした。
おじさんの話をすっかり他人事みたいに聞いていた九子だったが、九子だって何回生まれ変わっても恩返し出来ないほど世話になった出来すぎ母にひどいことをした。おじさんは奥さんをきちんと供養しているけれど、九子なんかお墓や善光寺のすぐそばに住んでいながら御無沙汰ばかりしている。おじさんの方が九子よりよっぽどましかもしれない。
出来すぎ母が亡くなった時、九子はどうしようもなく落ち込んでいた。
母が亡くなって悲しいのはもちろんだけれど、親孝行どころか、母の死を早めるようなことをした自分がどう考えても赦せなかった。
辛くて辛くて仕方が無くて、何をしたかというと活禅寺で母の法要をしてもらった。活禅寺はお葬式をしないお寺なのだけれど、その代わりに菩提寺がどこであっても頼みさえすれば活禅寺独特の法要をしてくれる。
菩提寺での七七忌の法要の日の朝、活禅寺で朝6時から1時間の法要を頼んだ。
その法要で、九子の心はとても楽になった。
なぜ楽になったのか?それは母がその時、あの世と言われるところで幸せに暮らしていると確信できたからだ。微笑んでいる母の姿が見えたからだ。
残念ながら菩提寺の和尚さんのお経を聞いても、九子に母の姿は見えてこなかった。
それを錯覚と言われようが、迷信といわれようが、大事なのはもう二度と会えない大切な人が今どうしているのか、目に耳に心に訴えてくるものがあると言うこと。
正しかろうが間違いだろうが、確信を持ってそうだと語れるのであれば、それがその人にとっての真実なのだと思う。
だって結局誰もあの世のことなどわからないのだから・・。
九子のウツがひどかった頃の話だ。
ご存知の通り、うつ病には波がある。日替わりで気分が変わる。今日が楽でも明日はひどく落ち込むかもしれないし、誰も予測が立てられない。
一日のうちでも午前中が悪くて、午後4時頃になると楽になるとかいうリズムもある。
そんな中、友人に薦められた一冊の本が九子の気持ちを確実に明るくしてくれた。涙が出るほど嬉しかった!
これで明日には確実に元気になれると思った。(実際はいったん発症したうつ病はそんなことで治るほど甘いものではないのだが・・。)
それが飯田史彦著「生きがいの創造」だった。
キリスト教には輪廻転生という考え方が無いので、「生まれ変わり」という考え方はキューブラー・ロス博士 あたりが提唱しなければ出てこなかったはずだ。つまりそういう子供たちが居る事が「生まれ変わり」の何よりの証拠ということだ。
飯田氏によると、人間はもともと「あの世」にあるべき存在で、この世の姿は仮の姿であるそうだ。
今の世の中であなたの周りに居る配偶者や子供や両親や兄弟姉妹や友人や、先輩や同僚や大嫌いなヤツや、そういう人々はみんな必ず次の世の中でも自分の近くに生まれ変わって、お互いに影響を受けながら与えながら生き続けるのだという。
彼らは'soul mate'つまりは「魂の友人たち」と言われて、何度生まれ変わってもお互いに離れることはない。
そもそも私たちはこの世に宿題を解くために生まれてきたのだそうだ。
それぞれが前世で解き残したさまざまな宿題を抱えて、生まれる場所や親を自分で選んで生まれて来ると飯田氏は言う。
だから亡くなったと思っているあなたの大切な人は、今現在本来の居場所である「あの世」であなたを静かに待っている。そしてsoul mateたちが次々と自分の宿題を終わらせてまた「あの世」に帰ってくるのをじっと見守っている。
幼くして亡くなる人々も、それは自分の宿題をきちんと終えて亡くなって行くのだという。ちょっとこのあたりは信じるのに辛いものがありそうだが・・。
全員が揃ったところでこの次はいつ、どんな場所で生まれて、それぞれがどんな役割を演じようかと皆が相談するのだという。だからあなたの妻は前世ではあなたの父親だったかもしれないし、大嫌いなあの人も、実はそういう役割の、あなたの大切なsoul mateなのかもしれないのだ。
こういう風に考えられれば、少なくとも大切な人を亡くして悲しんでいる人はずいぶん気持ちが楽になると思う。
当時九子はうつ病の最中だったけれど、読んで涙が止まらなかった。久しぶりの嬉しい涙だった。
自分がうつ病という病気であると言う自覚はまだ無くて、医者に行ったり薬を飲む事も思いもつかず、頻繁に来る落ち込みの中で辛い毎日を送っていた。
だけど変だなあ。考えてみれば当時九子の両親はまだ二人とも年より若いと言われてピンピンしていた頃で、飯田先生の「生まれ変わり」の思想のどこが、憂鬱な九子の心を楽にしてくれたのだろうか?
たぶんそれは著書全体に流れる明るさというか、とにかく死のような忌まわしいものや嫌いな人とかいう否定的な事の中にもちゃんと意味があって、それは次の世に肯定的につながっていくという極めて楽観的な考え方が、八方ふさがりの心に灯をともしてくれたのかもしれない。
とにかく飯田史彦氏で特筆すべきことは、彼は宗教家でも宗教学者でもなくて、大学研究室に勤める科学者であり、宗教活動は一切していないということだ。
ところが以前大川隆法の「幸福の科学」本を頂いて、読んだ途端にびっくりしたことがあった。そこに書いてあったことが、飯田史彦先生の言ってたことと良く似ていたからだ。
「幸福の科学」本は一時古本屋に結構高く引きとってもらえたので、もらったそばから売ってしまって(^^;;なんというタイトルの本だったのか明言できないのが残念なのだが・・・。
要するに大切なのは「信」なのだ!!
「生きがいの創造」は著者が何度も書き直して現在は最新版が出ているそうだが、多くの賞賛のコメントとともに、少数だが否定的なコメントも散見される。
大雑把に言うと、肯定的コメントはこの本を信じた人からのものであり、否定的なコメントはこの本を信じられなかった人からのものだ。もちろんこの本を信じられるか信じられないかは、その人の環境や生い立ちやその他もろもろの影響が加わる。
考えてみると日常生活の中で「信」が問われる事は毎日のようにある。いや、毎日何度となくある。
上司を、先輩を、先生を、友人を、交渉先を、親を、兄弟を、子供を、そして一番大切な「自信」に通ずる自分をどこまで信じられるかという問題。
何かを選択する際には、必ず何かを信じて選択していると思う。つまり判断する時には、必ず「信」がついてまわる。
活禅寺の無形大師は「信は万法の母」という言葉で信じる事の大切さを説かれた。
「信じるものは救われる」とか「イワシの頭も信心」とか言われるけれど、とにかく信じなければ宗教は成り立たない。
九子なんかはいつもいつも仏様に守られているという自覚があって、そのくせこの頃あんまりお寺に行かないのを申し訳なく思っているのだけれど、それでも子供の帰りが遅かったり、M氏からなかなか電話がなかったりするとその度に不安になったものだった。
考えてみると不安だったり、びくびくしたり、おどおどしたり、そういう時は必ず「信」がぐらついている。
九子の場合どんな時でも仏様を「信じきる」ことが出来れば、心配事がおきるはずが無い。
何の宗教にも属していないあなたでも、あなたに心配かけてるその人への「信」が怪しくなるから心配になるのではないだろうか? その人を「信じきる」ことが出来ないから「あの人なら絶対大丈夫!」ではなくて、「何かあったらどうしよう?」と考えるのじゃないかな?
あのおじさんだって善光寺の納骨堂へ行けば奥さんの供養になるし、奥さんに会えると信じてるから4時間の道をわざわざみえるんだと思う。
「信」というのはきわめて個人的なものだ。正しい信も、正しくない信も無いのだと思う。
自分が信じるか、信じないかというその一点にかかっている。比較も評価も値しない。
日本が自信を失っていると言われて久しいけれど、日本人の一人一人がもう少し自信を持てるようになるときっとこの国も変わっていくと思う。
自信とは、自分自身を信じること!どんな状況でも自分を最後まで信じきれること!他人がなんと言おうとも、自分が自分をすごい!自分なら出来る!と思うこと。
難しいなあと思う人は、是非坐禅を始めてみてくださいね。
坐禅をすると、自分が本来生まれもっている力の大きさを確認することが出来ます。仏様と同じだけの力を持った自分を感じることが出来るのです!
大いなる力に庇護してもらうだけならどんな宗教でも同じことだと思うけれど、坐禅だけがあなたが気づかないでいるあなたの中の偉大な力に気づかせてくれます。
なあんも出来ない九子でも、少しは自信がつきましたよ!( ^-^)
「神の手」の反論 [<九子の万華鏡>]
今回の日記はほとんどが医療従事者専門サイトm3.com編集部「失敗の研究」と題された連載記事の第一弾、福島孝徳氏独占取材記事からの抜粋であることをご報告しておきます。
「神の手」を持つ、あの福島孝徳先生が訴えられたというニュースに驚いたのは今年の春ごろだっただろうか。
ネットにも
「脳神経外科医、福島医師が、左右の脳を間違えて正常な脳の細胞を摘出されることが遺族からすれば考えられないことだと思います。」
「正常な脳細胞と腫瘍のある脳細胞は長年腫瘍手術を経験しているので、なにかおかしいと思うが、そのまま左右の脳を間違えたまま正常な脳組織を摘出する事が考えられません。
正常な脳組織を摘出されて女性が全身マヒで寝たっきり状態で最後は死亡、あわれです。」
などという批判が連日踊ったようだ。
当時なぜかあんまり新聞記事やネット記事を穴の開くほど見ようとしなかった九子であるが、最近見つけた福島先生の反論とも言える独占取材の記事には興味をそそられた。
まずは事故の背景だけれど、患者は30代の女性。病名は神経膠腫という癌の一種。
神経膠腫はグレード1から4までの4段階に分類でき、グレード1、2であれば、5年生存率は90%近くなのに対して、グレード4の悪性となれば余命は1年足らずなのだそうだ。
福島氏は原則として、予後改善が認められないとの理由で悪性腫瘍の摘出手術には応じていないという。
良性腫瘍が脳を圧迫していて、抑圧された機能が手術で取り除かれる事により元通りになるような事例を積極的に扱っているのだという。
その上さらなる問題は、女性の神経膠腫が視床で発生した点だった。視床は卵が左右に並んだ形でくっついており、幅20mm程度の脳深部組織。体性感覚、視覚、聴覚、痛覚などの感覚情報を大脳皮質に送る中継の役割を果たしていて生命活動への影響が大きく、摘出することは不可能だ。
だから女性から最初の手術要請の手紙が来た時に福島氏は手術を断っている。
ところがその後も再三女性の手紙は届いた。その上彼女の担当の脳外科医からも手術の以来を受けた。
福島氏はついに手術の依頼を受けることにする。
何より彼女の腫瘍はグレード1であるとの報告を受けたからだ。
MRI画像上、腫瘍のサイズは3cmと大きくなっていたものの、生検組織から「毛様細胞性グレード1」と診断されていて、視床そのものは切除できなくとも、視床から突出した腫瘍細胞を部分切除できれば他の組織への拡大を阻止できる可能性があると福島氏は踏んだ。
ところがここに最大の問題があった。
実は同じ生検の組織で、手術前に病理診断は2回なされていた。
1回目はグレード1の毛様細胞性、2回目の診断はグレード2あるいは3以上の悪性となっていたのに、福島氏には1回目の診断しか伝えられていなかったのだ。
つまり紹介元の病院では、悪性腫瘍のグレードは氏が術前に知らされていたよりも高いと、術前の段階で分かっていた。神経膠腫はグレード1を超えていた。福島氏は手術後になって初めて知らされた。
グレードが高ければ、福島氏は手術を引き受けなかったはずだ。手術をしても死亡を避けられないからだ。
もう一つ、今回の事故では特筆すべき問題がある。
福島氏はふだんの手術では、専用の顕微鏡をのぞき、わずか幅1cmほどの進入孔から頭蓋内の病巣を探る。
手術助手とやり取りしながら、福島氏が考案した大小様々、約300種類の手術器具を頻回に取り替えていく。
コンピュータを使ったナビゲーションシステムの画面で、今どこを切除、剥離しているかが分かる。術野の拡大像も手術室の幾つものモニターに映し出されている。
ナビゲーションシステムは福島氏の脳外科手術に欠かせない。手術ミスを回避する観点からも重要な「精密機器」である。
しかし今回は、この手術の生命線ともいうべきこれらの機器がなかった──。
つまり手術自体がまったく初めての病院でまったく初めてのチームとの共同作業だった。
ナビゲーションシステムは高価で3000万円もするものなので、それを整備して欲しいとは言ったものの無いと言われれば仕方なかった。その上重要なエコーも揃えられていなかった。
用意すると約束されていたものが用意されていなかったとしても、すでに頭蓋骨を切り取られて脳を露出されて横たわっている患者をそのままにして手術を中止する訳にはいかなかった。
この開頭手術にしても病院の医師たちがこの病院のやり方でやっており、福島氏が要請していたやり方とは異質なものだった。
このポジショニングの違い、つまりは患者の頭の固定のされ方の違いが、百戦錬磨の福島の判断力を狂わせる一因になってしまう。
手術ミスの根幹と思われるところを福島氏自身の言葉で記す。
しかし、極めて判別しづらい状況がありました。
左の視床は以前に生検で組織を採取されていたのです。そのため左の視床は黄色に変色し、凝血塊が付着していました。
視床は右も左もよく似ています。神経膠腫はグレード1と進行度が低かったですから、神経膠腫とはいえ、見た目では正常組織と似ています。私は凝血塊と黄変から間違いなく右視床からの飛び出した組織と判断しました。凝血塊は突出した腫瘍に見えたのです。
私は小指頭大、わずか1cmから1.5cmの組織を切除し、終了しました。
今回の病院には術中の迅速病理診断をできる体制もありませんでした。病理組織で確認することもできませんでした。
術後に頭部の回旋がわずかに違っていたと分かりました。術後、患者には回復可能であるものの右半身麻痺が生じていました。それにより、切除部の判別に不備があったと判明したのです。
私は患者側に手術の直後に切除部の特定に不備があったと説明し、謝罪しました。軸のずれがあり腫瘍に到達できなかったと話しました。病院内部の問題であった「ポジショニングの誤り」「ナビゲーションシステムを使えなかった」といった言い訳はしませんでした。
今回の切除部の特定不備により、手術で組む主治医との国際的連携をより充実させるべきとの教訓を得ました
一方の患者側は、神経膠腫であっても右視床の病変を全摘していれば、予後延長したと主張しました。腫瘍の悪化や死亡は防げたのではないかと言います。
私は繰り返し、「視床本体の腫瘍は切除不可能の部分である」「グレード3、4の悪性膠腫の場合、手術で一部視床から飛び出した部分を切除したとしても生命予後は変わらない」と説明しました。ですが、ご理解は得られなかったようです。
福島氏の反論が事実であれば、福島氏自身よりも先に、福島氏が乞われて執刀した病院の責任がより重いと思う。
患者の病態を偽って福島氏に手術をさせ、また福島氏との約束を反故にして用意すべき機器を備えずに、神の手に間違いを犯させたのだから・・。
また1億円を越すと言う法外な請求額も、30代の女性患者が65歳まで生きると仮定してなされたものだと言う。神経膠腫の予後が果たしてそこまであるものなのか。
突然何を言い出すかと叱られそうだけれど、九子の愛すべきM氏は( ^-^)、愛すべき典型的な日本人である。
そしてまじめで良心的なワーキングプアーな歯医者である。
腰が低いと評判の彼であっても、患者さんとのトラブルが皆無であったわけではない。
彼は思いのほか頑固であるので、トラブルが起きる時には必ず、必要な何かがなされていないのだと、いつになくきっぱりと言い張る。
何かとはなんぞや?それは患者さんの心のケアーだそうだ。
何かあった直後に、こちらが悪かろうと悪くなかろうと、誠意を尽くして患者さんの心を思いやってあげれば、少なくとも訴えられたりまですることは決してないと言う。
まあ、それはわかるよ。でもそれを世界の福島先生の問題といっしょに語っちゃっていいのかしらねえ。(^^;;
この記事は実は連載三回分なのだけれど、福島氏の言葉の最後の部分を以下に記す。
私は臨床の実力を問わない日本の医療界に満足できず1991年に渡米しました。これまでに2万2000件を超える脳神経外科手術を重ねてきました。独自の手術器具を駆使し、世界で最初の顕微鏡下鍵穴手術による脳神経外科治療を手掛けてきました。これまでも、これからも日本の臨床医のレベルの底上げに尽力したいと考えています。
脳神経外科はチーム医療を行いつつも、指導医と術者の手技の影響を受けやすいものです。個人の技術向上がほかの外科領域よりも大切になります。ですから「チーム福島」の弟子らをあと5年ほどで一人前にしたいと本気で考えています。スポーツに例えると脳神経外科はゴルフ。個人の技量を高めるのは欠かせません。胸部外科、移植外科などのほかの外科は、よりバスケットボールのようなチーム色が濃いと思います。
理由のない批判や不当提訴があると、難手術を引き受ける医師はいなくなります。不当な理由で訴訟が起こされる事態があるとすれば問題です。過大な請求が横行すれば、外科医は萎縮するでしょう。
私の実年齢は68歳ですが、生理的な年齢は48歳と思っています。手術の技術と実年齢はかかわりありません。
今でも体力、気力は充実しており、現在も世界で手術を連日引き受けています。世界の医療格差を乗り越えて頑張ってきました。
今回の経験により、条件がそろわなければ手術を実施しないと決めました。正しいポジショニング、正しいオープニング。さらにナビゲーションシステム利用の大切さを改めて痛感しています。今回私が得た教訓です。
最後の一文が示す通り、この事件により福島氏はこれからの手術の方針を変更せざるを得なくなった。
いわば無条件に手術に応じていたものに条件をつけることになった訳だ。
こういうことが、つまりは福島氏の神の手を包帯で締め付けるようなことが一番慎むべきことだと思う。
福島孝徳公式ホームページには"The last hope"の文字がある。
まさにたくさんの医療機関を渡り歩いてもうこれ以上打つ手は無いと言われた患者たちにとって、福島先生は藁をも掴む気持ちでたどり着いた最後の望みなのだ。
福島先生がこれからも多くの患者たちの希望の光であり続けるように祈る。
より詳しくは以下の記事をお読み下さい。
会員登録できない方は、下記のサイトに全文の抜粋がありますのでご覧下さい。
no.1 no.2 no.3困ってるひと・・・大野更紗 [<九子の読書ドラマ映画音楽日記>]
困ってる? お金に?仕事に?恋愛に?はたまたストーカーに?
とんでもない!彼女が困ってるのは、死ぬか生きるかの問題!彼女は難病女子である。
大野更紗女子(あえて女史ではなく女子と呼ぶ。)は、彼女がムーミン谷と呼ぶ福島県の原発から遠くない電車もバスも通らない山の中で生まれ、たぶん一人っ子で(違ってたらごめんなさい。)、共稼ぎの両親の下、じっち、ばっぱやひいおばあちゃん、近所の「子育ておばさん」に預けられ、物心ついてからは野山に放り出され、野草や筍、栗などを食し、裏の秘密基地(おお!なんと麗しい響き!)を駆けずり回り、川で泳いだ少女時代!
子育て時代の九子だったら、なんて理想的な育ち方!と目をうるうるさせて羨ましがるようなたくましい戦前の日本人の育ち方をした少女だ。いや、はっきり言ってしまえば、九子の出来すぎ母が育った状況と酷似していた。
出来すぎ母の場合は、男の子と一緒になって信州稲荷山の野山を走りまわっていたのであるが・・・。
九子はもうこれを聞いただけで、その後の彼女の決して枯れる事の無いエネルギーを予感し得た。
出来すぎ母が少なくとも亡くなる一年前、自由に自分の足で歩けていた頃までは、尽きせぬエネルギーをみなぎらせていたのを知っていたからだ。
大野女子は成績優秀で、村からただ一人、県下指折りの進学高に進む。そこで規律に反発し、制服を改良し、白ソックスを黒タイツに履き替え、金髪、フルメイクに至るまで、若さゆえのちっぽけな反抗を企てる。
一浪後、ワセダもケイオウも蹴っとばして上智大学外国語学部フランス語学科に入学。クラスのほとんどが帰国子女か高校で第二外国語としてフランス語を取っていたかのどちらかで、フランス語の基礎をある程度身に付けていた生徒ばかりだったから、まるっきり最初からの彼女はかなり苦労したらしい。留年組も多かったそうだ。
いつの頃からか彼女は、「とりすまして似合わないわらじの足に無理やりハイヒールをはかせるような」フランス語の授業に違和感を覚え始める。
同時に、おっかけをしていた教授の著書からアジア難民の人権に目が向くようになり、ビルマ難民の人々と知り合い、普通に暮らしていながら投獄され、拷問を受け、難民として日本で暮らさざるを得ない悲惨な状況の彼らを招いて講演会を開く事に奔走する。
いつのまにか彼女の生活は集会、NGO活動、難民認定裁判の傍聴、国会議員のへのロビイングでなどなどで埋め尽くされ、実際にタイ、ビルマに出向く日々も増えて、多忙を極める。
彼女の生活は「限界」に達しつつあった。
大学院に進んだ夏、ついに病魔が牙を剥く。
最初は両腕に出来た内出血のようなしこりと赤い発疹。そのうち痛みがどんどん増して、布団から起き上がれなくなる。全身の力が入らず、身体中が真っ赤なゴム風船みたいにパンパンに腫れる。触るだけで痛い。
関節ががっちがちに固まってぜんぜん曲がらない。これだけでも大変なのに、38度の発熱がどんな市販薬を飲んでも下がらない。
こんな状況下だったら、九子は毎日寝てる事しか出来ない。自分の不運を呪い、仏様に恨みつらみのありったけを言って(^^;;、わんわん泣きわめく。そんな事しか思いつかない。
ところが大野女子は違った。
たらい回しにされるばかりで診断一つ杳(よう)としてつかない日本の病院に愛想を尽かし、愛すべきタイにもう一度渡る。(タイービルマ国境に難民キャンプがあり、タイ経由で行くのが一番楽であるらしい。)熱は38度近く、手が腫れて、スーツケースを自分で持てなかったにもかかわらず・・。
結局体調の悪化は彼女の夢を余儀なく中断させ、彼女は日本に帰らざるをえなかった。
だがその時の彼女と言えば、抗癌剤を飲んでる訳でもないのにごっそり抜ける髪の毛、口の中は潰瘍だらけで辛いものは一切受け付けず、指もどこもかしこも潰瘍で、何も持てない。
手足の関節を少しでも曲げようとすると激痛に襲われるが、他人にはいっさい痛みを訴えずに我慢する。そして動くと出る39度の熱をタイの病院でもらった強い洋薬で紛らわす。まさに満身創痍だった。
飛行機に載るのもままならずに車いすのお世話になり、空港からはお年寄り用の杖にすがって病院まで直行!ところが前にも診てくれた医者は、「安静にしていれば、よくなります。」の一言!
ああ、難病ってこういうものか!
結局、麻酔も無しに筋肉を2時間も切り刻まれるなど、非人間的な拷問のような検査を経て、一年もかかってわかった彼女の病名はふたつ。<皮膚筋炎>と<筋膜炎脂肪織炎症候群>=FASCIITIS-PANNICULITIS SYNDROMEの併発なのだそう。両方とも自己免疫疾患と呼ばれる、自分の身体を敵とみなして自分の免疫が攻撃するというタイプの難病だ。
「お尻事件」などという信じられない悲惨な出来事もあった。
なんだかんだで話題になるステロイド。これは強力に免疫を抑制する薬だから、毎日ものすごい量(ふつうはプレドニン5MGくらいのところをを、60MGくらい飲む。)を一生飲み続ける。当然副作用もきついが、背に腹はかえられない。
大野女子はステロイドを飲まねばならなくなった時、決意した事があるのだそうだ。自分の中の恋愛感情を司る部分を永遠に封印すると・・・。誰かを好きになっても自分が傷つくだけだから・・・。
でも彼女は一番信じていた医師の裏切り・・と彼女は言うが、要するに不用意な発言で傷つけられるという彼女にとっては耐え難い苦難の時、もう生きる気力をすべて無くして死を選ぼうとしたまさにその時、「あの人」の存在によって死の縁から救われる。
「あの人」とは、同じ難病病棟にいる背の高いおにいさんだ。
彼のおかげで生きる希望を無くしていた女子は、一夜にして180度の大変化で俄然生きたくなる。
こういう展開、いいなあ。( ^-^)
でも二人の前途は多難だ。いつ何時、どちらかが突然死んでしまう危険といつも隣り合わせだ。
彼女は9ヶ月の病院生活の後、病院を出て一人住まいを決意する。そこに至るにはさまざまな行政の壁が横たわっていた。いわゆる書類に継ぐ書類の山と、移転先毎に異なる書類を書かねばならない行政の非効率。
でもすべての壁をどうやらこうやらうち破り、難関の引っ越しも友人家族や「あの人」の協力でなんとか乗り越え、彼女は病院に来た時と同じくたった一人で、病院のドアを外の世界に向かって歩き出す。
2年前、健康だった彼女の靴音はコツコツ、ガンガン、ガツガツというものだったが、当時は他人の痛みなどまったく理解できなかったと彼女は言う。
だが今は、杖のコツッという音のあとに続くズルッという自分の身体をひきずる音。歩く時はその繰り返し。
病状から言って、彼女の靴音が元どおりに戻る可能性は極めて低そうだ。
だけど彼女は言う。
「今は少しだけわかるよ。ひとが生きる事の、軽さも、重さも、弱さも、おかしさも。」
ここからが、すべてのはじまり。
さあ、生きよう。語ろう。
ああ、九子の拙い要約じゃあ残念ながら伝わらなかったと思うけど、大野更紗さんの勇気、少しはわかって頂けたでしょうか?わかって下さった奇特な方も、わからなかったとおっしゃるアタリマエな方も、どうか「困ってるひと」をぜひ一度実際にじっくりとお読み下さい。
アマゾンの書評を読むと、文体が軽すぎて合わないとか批判めいた意見も確かにある。
批判してる人が全てそうであるという訳では決してないが、精神的に弱く生まれついた九子のような人間からすれば、どんなに身体がデコボコに傷ついていようが、太陽みたいに明るく自分の病気を笑い飛ばしてしまえる大野女子の精神の強さは、憧れを通り越して怖さすら覚える。
身体の至るところが痛んで熱が下がらないんだよ。その上肩に2トントラックのっけたような倦怠感だそうだ。
九子なんぞ、りんごの皮ひとつ剥くのにナイフで指の皮まで切り(何年主婦やってんの?(^^;;)、痛い痛いと大騒ぎをして二日くらいは動かし惜しみをする。
37度の熱が出れば喜んで布団にもぐり込み、ウツでだるいと言っては一日中寝ている。
この人間としての落差は何よ!(^^;;
自分には決して到達できないであろう精神の高みに立ってしまった人への羨望とか嫉妬とかのネガティヴな感情があることはよくわかる。九子もかつて、自分の嫌らしさにヘドが出た。過去形で人事みたいに書いたけど、坐禅を知って少しはましになったとは言え、自分だけがおいてけぼりをくらったような苦い敗北感があるんだよね。
ましてや彼女は若くて美形でインテリだ。さぞや大学時代はもてただろうと思う。勝ち組だった人へのやっかみも若干混入する。
ただ、最後まで読めば彼女が病院を出て一人住まいを始めた6月のあの日のような太陽の暖かみをほのぼのと感じる事が出来ると思うんだ。
身体のどこにも、痛みも腫れもだるさも辛さも無くて、フツーに生きていられるってことがなんてありがたい事なのかを・・。
そして、自分も彼女に負けないように頑張らなくっちゃって。
あっ、ウツ病持ってる人は頑張らなくていいですよ。( ^-^)
岩崎宏美 虹・・singer [<九子の読書ドラマ映画音楽日記>]
いつもおかしいなあと思ってる事がある。
九子が若かりし頃に活躍してた歌手と呼ばれる人々。一例をあげれば郷ひろみ、松田聖子、岩崎宏美、布施明、沢田研二、中森明菜、近藤真彦、などなど。
平井堅やポルノグラフィティのライブに行く時は何ら恥じる事無く周囲に吹聴出来るけれど、なぜか昭和の匂いの色濃い彼らのコンサート(ライブではなく)に行くと言う事を誰かに伝える時、なぜ一沫の恥ずかしさが漂うのだろう?
もちろん九子だけかもしれないのだが・・。
歌手あるいは歌い手という言葉。シンガーというのともまた違う。
昭和という時代、歌手はみんな作詞家先生や作曲家先生に曲を書いてもらい、プロデューサーという人々の言うなりに歌い、振り付け師に教えられて手足を動かして踊り、まるで自らの意志を無くした操り人形のようだった。
もちろん自分なりの表現をプラスする自由はあっただろうが、許される範囲はそんなに大きくは無かったと思う。
今はシンガー=ソングライターが当たり前になり、自分の歌を自分でプロデュースする人々の方が増えて、歌手はアーティストと呼ばれ、自由自在に自分の世界を表現出来るようになったのだから大きな進歩だ。
アーティストと呼ばれるようになった歌手たちは、誰かに操られる事なく自分の意志のままに歌える。
昔はそういう不自由さがあったという事実とはまた別に、歌手とか芝居とか、もっと言ってしまえばサーカスなどの曲芸とか、そういう演芸一般に対する差別と言うか、要するに「見せ物」として括られて、それを生業(なりわい)とする人々を低く見るというような、そんな風土が昭和以前の日本にはあったように思う。
要するに貧しい家の親たちが女の子を郭(くるわ)に売ったりした時代からさかのぼって、郭がなくなり、サーカスがそれに取って変わり、要するに人に芸を見せる仕事は、ある時期貧しい家の子供たちの行きつく先という印象があった。
九子なんかも小さい頃叱られた時に「悪い事をするとサーカスに売ってしまうよ。」みたいな事を言われた記憶があり、シルクドソレイユなんかがどんなに華やかで優美なショーを見せていても、どこかに一沫の哀愁を感じてしまったりする。
一番忙しかった頃のピンクレディーの思い出話なんか聞いても、いかにして歌手と言う使い捨て商品を旬のうちに売り切ってしまうかという業界の思惑が垣間見られて、ひどく気の毒に思ったものだ。
まあ、そんな事が影響してるのかどうか、松本に岩崎宏美が来ると聞いた時、どうしても行きたいと思った訳ではなかった。やっぱりポイントは格安な値段かな。(^^;;
ただ、テレビでたまに流れてくる郷ひろみや松田聖子ちゃんの歌声は後押しになった。
つまり何十年間も第一線で歌いつづけている彼らの声が、年月と共に深みや艶、そして声量までもを増しており、それならば当時若手一番の歌唱力で定評のあった岩崎宏美なら、きっと凄い歌を聞かせてくれるのではないかと思った訳だ。
九子の予想は的中した!
「思秋期」に始まり、「聖母(マドンナ)たちのララバイ」で終わった2時間は、九子が思った以上に豊かなものだった。
実は九子はしばらく前に松任谷由実のコンサートを見に行った。例によってYさんが誘って下さった。( ^-^)
こじんまりとした舞台の上に昭和60年代みたいなファッションを身に付けて歌うユーミンはあの日のままだった。
そう言えばユーミンには「あの日に帰りたい」という名曲があったけれど、会場は年を重ねた往年のファンがほとんどで、一人ちっとも変わっていないように見えるユーミンのあの頃と変わらぬ歌を聞きながら、若かりしあの日に帰る事が出来てとっても幸せだった。
だから、岩崎宏美にもまずはそれを期待した。
ただ九子の場合、ユーミンの全盛期の頃がちょうと甘く切ない青春の頃に当たっていて、ユーミンの歌を聴くとまるで額縁に彩られた一枚の絵のように鮮明に思い出す一場面があるのだが、残念ながら岩崎宏美の歌と重なる甘酸っぱい思い出はあんまり無い。(^^;;
岩崎宏美は進化していた。彼女自身には二十歳をはさんで二人の息子さんがいて、数年前に再婚もしている。折りしも妹の良美さんが産婦人科医と結婚されるというおめでたいニュースの最中でもあった。
人生経験を積むと歌に幅が出ると良く言われるが、岩崎宏美の場合、もともと美しかった声にさらに魅力が加わった。とにかくはっきりと声量が増したのだ。
彼女が何年か前に声帯ポリープの手術をした時、友人のさだまさしは「宏美ちゃんみたいな発声していてポリープが出来るはずがないんだがなあ。」と言ったそうだ。
確かにのどに無理な力が加わったような歌声ではない。のどからポンと空中に投げ出された音が腹式呼吸によって増幅されて、聴衆の耳元でぱちんと弾ける花火になる。
その花火の麗しさにみんな息を飲んだ。
コンサートのタイトルにもなった「虹・・Singer・・」は彼女がこれからずっと歌い継ぎたいと言うさだまさしの楽曲で、歌を歌うという使命を背負った自分への、そして自分の歌を聞いて元気になって欲しい聴衆への応援歌になっている。
そこにはかつて歌手と言われ、上から言われた通りに歌うよりなかった岩崎宏美の姿は無い。
まさにsinger=artistアーティストであり、歌という芸術を極めて、苦難にある人を一人でも多く勇気づけたいという大きな夢を抱く夢追い人の姿があるばかりだ。
聴衆はみごとに熟年だらけだった。それから下もそれから上もほとんど居ない。岩崎宏美と一緒の時間人生を歩んで、子供も成人して家を出て、夫婦二人の時間が出来たから、どちらかに誘われてここへ来たという二人連れがほとんどだった。
もちろん九子もM氏と一緒だった。
割れんばかりの拍手を浴びてアンコール曲を歌う岩崎宏美の姿が見えなくなり、皆が立ちあがり、九子が「ああ、今日来て良かった!」と熱い思いで胸がいっぱいだった時、M氏が言った。
「いつでもざっと2割なんだよね。」
「えっ?なんの話?」
「俺さあ、いつもなんかの大会とかあるとさあ、観察するんだよね。すると大抵2割なんだよ。」
「だから何がよ!」
「座ってる一列の中ではげてる人の割合。」
「えっ?」(絶句)
(気を取り直して)案外少ないのねえ。男の人だけ数えてるの?」
「そうだよ。ちょっと薄い人や、ステッキ並べてるみたいな人や、つるつるの人まで含めて2割なんだよ。8割ははげてないんだよ。俺うらやましくてさあ。」
挙句の果てにM氏はこんな事まで言った。「岩崎宏美良かったけどさあ、俺、高橋真梨子の声の方が好きだなあ。」
素晴らしいコンサートで感無量の時に、はげの話や別の歌手の話をする人とは金輪際一緒に来たくなかったよ。(^^;;
美男子の死 [<九子の万華鏡>]
竹脇無我さんが亡くなった。
小脳出血だそうだ。
「花で囲まれた美しい君の写真を目の前にこうしてここに立っていてさえ、僕はまだ、君の姿を、人の間に探してしまう。」
ちょっと違ってるかもしれないけど、加藤剛さんの弔辞のこの一文が泣かせた。
竹脇無我さんを偲ぶ会でのことだ。
竹脇無我と言ってピンと来るのは熟年世代以上の方ばかりかもしれない。
やっぱり一番の当たり役は、加藤剛さんと組んだ「大岡越前」の赤ひげ医者榊原伊織役じゃなかったかな?
イケメン好きの九子は当時から目を付けていて(^^;;、彼の美しい顔を見るのを楽しみにしていた。
アナウンサーだったというお父様ゆずりの低い声も素敵だった。
美女好きだった森重久弥は、美男子の竹脇無我も大好きで、「無我ちゃん、無我ちゃん」と言って可愛がり、どんなに機嫌が悪くても無我ちゃんの顔を見ると機嫌が直ったのだそうだ。
竹脇無我は、何と言うか、そんなに芝居がうまい方じゃなかったと思う。
抑揚の少ないしゃべり方で、感情を抑えたと言うか、感情の起伏があんまり見えて来なかった。
だからダイコン役者と言われてしまう事もあった。
昔はイケメンすなわち美男子の事を二枚目と言ったけれど、二枚目役しかやってこなかった竹脇無我は、そのうち表舞台から消えてしまった。二枚目役というのには旬があるらしい。
ず~っと、ず~っと長い間、竹脇無我の姿を少なくともテレビの画面で見る事はなかった。
それが突然、うつ病から生還した経験を綴った本が売れてカムバックが実った。
「凄絶な生還~うつ病になって良かった」は読んだ事がないけれど、彼の場合は完治まで8年もかかっているからかなり深刻な症状だったのだろう。
お父様も若くして同じ病気で自死を選ばれてしまっている。
本の他に、全国各地から講演会にも呼ばれて忙しい日々を過ごし、来春の舞台の役も決まっていたのに、せっかくうつ病を克服したのに、脳の病気にやられるなんて哀しい。
ただ、彼はうつ状態を酒を浴びるように飲んで解消しようとしていたのだそうだ。
Mr.childrenの桜井君も酒好きで小脳梗塞を起こしたらしいし、実は九子の親戚にももともと酒好きで奥様に先立たれてから歯止めが効かなくなり、小脳梗塞を起こした人が居た。
もしかしたら酒が過ぎると、特に小脳に問題を起こしやすくなるのかなあ?
こう言ってはなんだけれど、竹脇無我は不器用な人だったのだと思う。
役と言えばいつもいつも美男子でかっこいい役しかしない。
お葬式でお嬢さんがおっしゃっていたけれど、彼は家の中でもかっこいいお父さんだったのだそうだ。
家の中って一番くつろげる場所だと思うのに、その家の中でもテレビドラマの中のようなかっこいいお父さんを演じなければならなかったとしたら、いや、そうするのが自分の勤めだと思い込んでいらしたとしたら、さぞかし窮屈な人生だったのではないかな?
もう少しかっこつけずに生きられたらよかったんじゃないのかな?
だけどそれを言うのは彼にとって酷なのかもしれない。
竹脇無我に美を、かっこ良さのみを求め続けたのは、他ならぬ九子たち視聴者であり観客たちだった訳だから・・。
特に昭和の時代は二枚目役と三枚目役ははっきりと区切られていて、二枚目役が三枚目役をしたり、三枚目が二枚目をするとか言うのはほとんど考えられない事だった。
そこ行くと今のほうが役者さんはずっと自由だ。
天下の二枚目高橋英樹はバラエティー番組の常連だし、モデル出身の阿部寛は、最初のうちこそダンディーな役ばかりだったらしいが、つかこうへいの影響を受けて喜劇に開眼し、シリアスなものからコメディーまで幅広く活躍している。
同じモデル出身のエロ男爵こと(^^;;沢村一樹も、小学生の頃からみんなの人気者だったお笑いの才能を生かして、先輩阿部寛の路線を目指しているらしい。
例によって薬局も暇になる九子のテレビの時間帯(って、いつも忙しいような言い方だけど(^^;;)、午後4時からのフジテレビ「結婚できない男」の再放送の阿部寛は最高だ。( ^-^)
「結婚できない男」は、きっと学習障害なり発達障害なりがあるんだと思う。
毎日規則正しい生活をして、趣味にも食事にもいろいろなこだわりを持ち、かばんの中や机の中は常に同じ物が同じ所に無いと落ち着かず、手は不器用でネクタイもうまく結べず、他人には理解できない独特のファッション感覚で、グサッと人の気持ちを傷つけるような事を平気で言ってしまい、周りの空気を読めない。
うんちくがたくさんあってそれをひけらかすものだから、まわりがみんな引いていく。
一人の世界を好み、クラシック音楽を大音量でかけては指揮者のまねごとをして一人悦に入る。
(もっとも彼は建築家と言う設定で、空間の概念などに長けているところは学習障害と少し違いそうな気もするが・・。)
「結婚できない男」が昭和の中年おじさんたちに人気があった化繊の入ったヨコシマの半袖のポロシャツにひざまでの半ズボンをはいて、長身をネアンデルタール人のようにかがめて歩く姿は、同じく長身で軽い学習障害のある我が三男Yの姿に似ていなくも無い。(^^;;
確か初回だったと思ったが、「結婚できない男」が腹痛で倒れて、独身女医の早坂先生に診察を受ける場面で、下半身丸裸で診察代の上に腹這いになり、お尻丸出しでカメラに写った時には、さすがに「阿部寛よ!そこまでするか!」といささかショックだった。(^^;;
阿部自身はつかこうへいの芝居でホモの男の役をして、男同士でキスをしてからというもの、すっかりふっきれたと言っていたのだけれど・・・。
若い時って、もうそれだけで美しい。
この頃になって九子はしみじみとそれを思うよ。(^^;;
若い上に見目麗しく生まれついた人は、周りからちやほやされて何をやってもほめそやされ、幸せな一時期を約束される。
ただ、それから20年、30年たった時、その人がそのまま幸せで居つづけられるかどうかはわからない。
昔は目立たなかったさもない人のほうが、付き合って面白い社会の実力者になっていたりする。
役者さんで見ても、佐藤浩市や竜雷太や時任三郎や、どっちかって言ったら醜男の方が、若い頃よりずっといい味出して格好良くなってるなあと思う。
美人や美男子は若い頃と変わらぬ美しさを保つ事に汲々とする。
だけど無常の世の中では、それは大変難しい事だ。
「美」というのは、遊びが無いと思う。
「美しい」という範疇は大変狭いので、ほんの少しそれがずれただけで人々は今まで「美しい」と崇めていた対象の美の衰えを敏感に感じ取る。
たとえば美人女優さんの一本のしわであったり、二枚目俳優の顔のたるみだったり・・・。
美しくある事を運命づけられちゃうと大変だよね。
結局無常に逆らって若い時のままに歳を重ねる事は無理なのだ。
そうであれば、美しさ以外のものを売り物にして行くほうが賢明だ。
そういう意味で阿部寛は賢かったと思う。
竹脇無我の場合は、ああいう時代だったから気の毒だった。
こうしてみると、人間の運不運というのはわりあいに平等であるようだ。
美形に生まれて若い時に輝いてた人は、老いるに従ってその美を失っていくという悲しみに合い、それなりの人はそれなりの若い時だったかもしれないが、数十年後の同級会で「おや、いつまでも若いね。」と言われたり、「この頃輝いてるね。」と言われる事があるかもしれない。
このあいだ本願時の大谷暢順さんも一番最後に言ってたよね、諸行無常は救いだって。
世の中あんまりいい事なかったよって思ってるあなた!
きっといい事はこれから来るんじゃないかな。( ^-^)
そこそこ幸せだったなって思ってるあなた!
悪い事しないで良い事だけするようにしてると幸せは長続きするみたいだよ。( ^-^)
そして美女でならした九子は、これからずっと時間に復讐されて、苦い人生を歩んでいくのだよ。
(えっ、え~~~???(^^;;(^^;;)
親鸞に学ぶ生と死 [<坐禅、仏教、お寺の話>]
文芸春秋一冊を読み通した事はほとんど無いが、ちょっとした隙間時間に拾い読みするには格好の雑誌だといつも思う。
特に九子のような怠惰な主婦がお昼寝前の数分間に、あちこちに散乱している(^^;;文芸春秋の中から無造作に一冊を選び、数行読み始めてみたらお昼寝を忘れるくらい面白い記事だった!なんて事があると、その日一日が、さも充実していたかのごとき錯覚に陥ったりする。(^^;;
今回のは文芸春秋2011年7月号だった。( ^-^)
野村萬斎がこの頃久しぶりにテレビの車のCMに出ている。
NHKの朝ドラ『あぐり』で吉行淳之介氏のお父上エイスケ役を演じていた頃から、もう15年ほど経つらしい。
いい年月を重ねて味のある役者さんになったんだろうなあと思う。
その彼が今回の対談の片割れだったとしても、お相手が本願寺文化財団の大谷暢順(ちょうじゅん)氏というので最初は食指が動かなかった。
大谷暢順って人がどんな人か九子はよく知らないよ。でも、たぶん十数年前に本願寺に お家騒動があって連日新聞を賑わせた、確かその時の大谷さんに連なる人だよね、きっと。一応仏教徒のはしくれの九子として、仏教宗派のお家騒動ってのは頂けないでしょう。
ところがちょっと読んでみると、この大谷さんの原作、監督の舞台「六道輪廻」で、野村万作、萬斎親子が演出出演したのが二人の御縁の始まりだそうだ。
へえ~っ、舞台監督も勤める大谷暢順っていったい何者?九子はがぜん興味を持った。
調べてみると大谷暢順氏は親鸞聖人より続く血筋大谷家の次男で、東京大学印度哲学科を出た後、パリのソルボンヌ大学を卒業、第七大学の大学院で博士号を取ったインテリだった事がわかった。
狂言には「悪人」が出てこないのだそうだ。小悪党はたくさん出てきても、悪人に終始する人は出てこない。どんなに敵対しても最後には和し、どれほど愚かな人間にも何らかの光が差し込む物語になっているのが狂言なんだそうだ。
善はどこまでいっても善で、悪はどこまで行っても悪とするキリスト教的な善悪二元論とは一線を画している。
なるほどね。狂言って、日本文化そのものなんだね。
また親鸞の教えの中に他力と自力というのがあるが、今この他力という考え方が大切だと萬斎さんは言う。
現代は「個」「我」が強い時代であるが、これはまさに自力本位の時代である。
ところが西洋でも中世以前、個人主義や自我が芽生える以前には、まさに神や自然というもっと大きな存在の中に自分は生かされているという世界観が一方にあった。
それこそがまさに「他力」の自然観である。
「人間の力ではどうしようもない事が在る。」と思い続けていく人間の存在の仕方があったのに、それを、つまり「他力」を忘れてしまって、私は、人間は何をしてもいいんだ、万能なのだという驕り高ぶった気持ちが今回の大震災を引き起こしたと、萬斎さんは語る。
それに対し大谷氏も
「人間があまりに強大な力によって何かに圧力を加えると、必ず自然からしっぺ返しがくる。」と応じている。
そう言えば対談の途中に大谷氏がこんな事を言っている。
「長く続く文化を発展させていくためには、日本の外の反応を謙虚に受けとめて、摂取していく精神が必要です。それで私は親鸞聖人の和讃や連如上人の御文を、フランス語に訳し、現地で出版されました。」
充分に時間をかけて丹念に仕上げたはずだったが、「(フランス語にするには)文の中で何が主語で何が動詞であるか、またそれが欠落している場合は、本来どういう主語が必要であるか考えなければなりません。そうなると私は元々この文の意味を充分理解していなかったのではなかろうかと、急に自信がぐらついてしまったりしました。反語的な言い方かもしれませんが、翻訳の仕事によってこそ、本当に仏法を学ぶことができるという気持ちになりました。」
この件(くだり)を読んで、九子は急に大谷氏を身近に感じた。
実は九子もほんの一時ではあったが、間違って(^^;;活禅寺の無形大師の御提唱を英訳する仕事に加わらせて頂けた事があった。その時に、大谷氏と似たような思いを抱いたものだった。
もちろん大谷氏は東大出の、しかもフランスの大学で学んだフランス語の大家であり、しかもい親鸞聖人のDNAを継ぐ、天皇家と並び賞されるほどの家柄の方だ。
九子の体験などとは比べるまでも無かったことは言うまでも無い。(^^;;
その大谷氏みたいな人でも自分の先祖に当たる親鸞聖人の言葉を翻訳をされた時、自分が今まで仏教を充分理解していなかったような気持ちになられたというのは、なんて謙虚な言葉だろうかと思った。
「日本語とフランス語が文法的に全く違うというのは、つまりは日本人とフランス人の思惟方法が違うということなのだと今更ながら感じています。日本の伝統を世界に伝えるためには、結局日本の思惟方法を世界に理解させなければならないと思います。これは大変大きな難しい問題です。」
ほらほら!おいでなさった!
九子がいつも言ってること、大谷暢順氏が代弁してくれちゃってるよ!(^^;;
ますます読むのに熱が入るよねえ。( ^-^)
家を継ぐって凄い事だ。
野村萬斎さんにせよ大谷暢順氏にせよ、もちろん選び抜かれたDNAを持ち合わせていたからだろうが、優秀な大学を出て(萬斎さんは東京芸大卒だそうだ。)、知恵のありったけを使って何十年何百年続く伝統を国内ばかりではなく海外にも広げようとしている。
東大出たばかりが偉い人じゃないことは天下り官僚たちの生き方をみるとよくわかるけれど、東大出るだけの知識と知恵がある人は、やっぱり凄いよねえ。
DNAって言えば萬斎さんがこんな事を言っている。
「代々の芸のDNAは「個人」をどこかに捨てないと身体の中に入ってこないと思っています。落語家さんもよくおっしゃいますけれども、まず内弟子修行をするとか、師匠と生活を共にしてはじめて芸のDNAが共有される素地が出来るんだと思います。もちろん血縁があれば当然一緒に暮らすわけですから、DNAは血とともに入ってきやすいでしょうが、たとえ他人の弟子であっても、寝食を共にすれば芸のDNAの浸透力は高くなるはずです。」
それに対し大谷氏がこう応じる。
弟子は個を捨て無我になって師の教えを仰ぎ、伝統を受け継いでいくのです。」
こういう師のことは「善知識」と呼ばれ、親鸞聖人の和讃には
善知識に会うことも 教うることもまた難し
よく聞くことも難ければ信ずることもなお難し
とあり、守るべき芸なり教えの神髄を受け継いでいく事は大変なことだと説いている。
芸も教えも、身を捨てて無我にならなければ身に付かないっていうところが凄いよね。
対談の最後をしめくくった二人の言葉を記してみよう。
野村萬斎
僕のような狂言師ができることは、生きることの素晴らしさを教えてあげたり、「生きていれば笑うということがあるんだ」ということを伝えることだと思っています。生きる気力がなくなったり、精神的なダメージがあるときにも、狂言は人間を肯定してくれる。「まあ、大変なこともあるけど、小さないいこともたくさんあるだろう」と。つらい状況にあっても、どうか生きることに一生懸命になってほしいと思っています。
大谷暢順
この世という「しゃば」は、人が耐えていかなければならない苦しみの世界。しかし、すべては移ろいゆく「無常」であるがゆえに、決して悪いことばかりではありません。どうか希望を持って生きてほしい。
この世にはどうしても「死」がある。だからこそ「生」があるのだということを、おぼえておいてほしいと思います。
九子は今度、萬斎さんの狂言を見に行くよ。善光寺の近くに「北野文芸座」という小さな劇場があって、たまに落語や地味な歌手のコンサートや、時には狂言もかかる。
九子だって少しは自国の文化を勉強しなくちゃね。
だから皆さんも、狂言や仏教、是非興味をもって下さいね。( ^-^)
人ごとじゃないぞ、九子!
おまえもいつも怠けてばっかりいないで、もっと修行して仏教徒らしくしろよ!!
(無形大師の声)(^^;;(^^;;
岩合光昭 ねこ 展 [<正統、明るいダメ母編>]
あなたはイヌ派だろうか?それともネコ派?
九子はずっと自分はイヌ派だと思っていた。
だって猫など飼った事無いし、もとより我が家は目薬屋。
昭和57年まで家の裏にひなびた工場があって、もともとは軟膏状だった雲切目薬を三日ほど母が一人で機械を回して作っていた。
出来た軟膏を母屋に持って来て、またしても母が一人で調剤室やたまには台所で(^^;;蒸留水に溶かしたり、ビンに分けたり、箱に入れたり・・・。(のどかな時代でした。( ^-^))
本当に出き過ぎ母がたった一人で作ってたんだよねえ。信じられない!
とにかくそんな訳で、衛生上の見地からも我が家で犬猫を飼う事は長い間ご法度だった。
ところが祖父が脳卒中で倒れて、母が祖父のリハビリのために鹿教湯(かけゆ)温泉に行ってる留守に、我が家に泥棒が入った。
裏門を越えて庭からの進入だった。
それでやにわに犬を飼おうと言う事になった訳だ。(庭に放しておけば室内に入らないから、犬ならまあいいか!という訳。)
そのあたりのてんやわんやはこちらを見てください。( ^-^)
結局それ以降犬は3代か4代我が家に居続けた。孫が5人も次々生まれて、母が犬の世話どころじゃなくなってしまうまで・・。(^^;;
だから、ほとんど手の届く所に居ない猫よりは、犬の方が九子に近いと思っていた。
九子は、我ながらあっさりした性格だと思う。
隣の八百屋さんにゆきちゃんという可愛らしい看板犬が居て、犬好きなお客さんがみんな可愛がって、顔がひしゃげるくらい頭をなでたり体中をなでまわしたりしているのだけれど、九子はそういったことをした事が無い。
もちろん可愛いとは思う。だからゆきちゃんの顔を見れば笑うし、小さく声もかける。ただそれだけだ。
たぶん何も通じてない。(^^;;
とにかく手を出すというのが苦手なのだ。
一人っ子で出き過ぎ母になんでもやってもらって育った影響だろうか。自分から手を出さなくても誰かがやってくれるという状況に慣れてしまったのだろうか。
それとも小さい頃から自分一人の世界で遊んでいる習慣がついてしまって、人付き会いの淡白さが、ありとあらゆる物に対する関係性の薄さにつながって行ったものなのだろうか?
たぶん小中学校の調理実習のはてから薬大の実習に至るまで、九子はありとあらゆる場面で参加するイコール手を動かすと言う事に逃げ腰だった。(^^;;
そして今に至るまで、その状況は進展していないように見える。
「岩合光昭のねこの写真展」は、どうしても見たいと思って行った訳ではなかった。(岩合さん、すみません。(^^;;)
ところが行ってみたら、偶然その日はサイン会の日で、まだ会場の「ながの東急百貨店」に残っていらした岩合さんご本人にサインを頂く事が出来てしまった。100人限定のサイン会で94番目だった。(なんという強運!(^^;;)
「ねこ」という今日の展覧会の写真のほとんどを、岩合氏が付けられた珠玉の一言といっしょに収められている写真集は、頬ずりしたくなるような猫たちでいっぱいだ。(なか見検索あり!)
- 作者: 岩合光昭
- 出版社/メーカー: クレヴィス
- 発売日: 2010/03/03
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
その見返しに岩合氏が一冊一冊、猫のイラストを描いた上にMitu Iwagoとサインして下さった。
写真集を買ったのはM氏なので、もちろん握手はM氏しかしてもらえないと思っていたら、岩合さんが「どうぞ」と目くばせして下さり(のように思えて)、おずおずと(図々しく(^^;;)手を差し出す。
がっちりとした温かい手だったなあ。( ^-^)
M氏と九子は珍しく歩きで来たから、九子の手もあったかかった。
ああ、残念!もっと冷たくてほっそりした手だったら良かったのに・・。(^^;;
まあそんな訳で、俄然展覧会見るのに力入っちゃったのよねえ。( ^-^)
写真はもちろん素晴らしかったけど、一言せりふがとびきり良かった。
ネコの動作に感心したり、想像したり、時には突っ込みを入れたり・・・。そして撮影された土地名が入る。
さすが!岩合さん。ぴかイチの感性は、写真でも文章でも同じように発揮されるんですね。( ^-^)
たとえば岡山県の真鍋島では、外国のタイル屋根のようなマリンブルーの瓦屋根が並んでいる上に7匹の猫が等間隔に、ちょうど瓦一枚分だけ隙間をあけてお行儀よく並んですわっている。
それに対する岩合氏のコメントはこうだ。
「猫はプライバシーを大切にします。」( ^-^)
「遠路はるばるよくいらっしゃいました、と」と書かれた猫たちは、群馬県みなかみ町の2匹。
右側の大柄な猫がまるで満面の愛相笑いを浮かべている旅館の大女将で、左の若い器量よしの猫が美人若女将みたいな風情。
実は九子もちょっとやってみたのだけれど、小学生くらいのお嬢ちゃんを連れたおとうさんが、写真だけ先に見て、一言を当てるというゲームをやっていた。
いろんな風に遊びながら楽しめるのがこの写真展の良さだと思う。( ^-^)
日本の猫が多いのだけれど、外国の猫も時々まざって出てくる。
九子にとっちゃあ猫そのものにあんまり違いはないように思うのだけれど、猫好きなM氏はどこか違うと言う。
最後は岩合さんの飼い猫の天才「海くん」の写真だ。
岩合さんがカメラを構えると即座に身構えて気合の入り方が違う、生まれながらのモデル猫だったそうだ。
やっぱり猫はかわいい。九子は今日から断然ネコ派になったよ。( ^-^)
赤ちゃんが可愛らしいのは、誰もが庇護したくなるような可愛らしさを備える事によって敵から身を守るという自然の摂理だというのを聞いた事がある。
そして赤ちゃんの顔は誰もが愛らしいと思える黄金比で出来ているのだという。
動物の赤ちゃんもこれしかり。
考えてみるとネコの顔の方がイヌのそれより黄金比に近いのではないだろうか。
小さい時は黄金比の犬の顔も長じてくるとやたら長くなったりするが、猫族の方が一様に赤ちゃんの時の顔をとどめている。
九子は昔、パンダに憧れた。
あんなふうに食っちゃ寝してるだけでみんなにちやほやされて愛されるなんて、なんていい暮らしだろうと本気で思っていた。(^^;;
だけどよく考えてみたら、中国の山の中で毎日笹の葉っぱしか食べられない生活なんて冗談じゃなかった!
やっぱネコでしょ!写真展の中にも寝そべってるネコばっかりやたら多かった。
そうじゃなきゃ日なたぼっこしてるとか、お気楽そうなヤツばっかり・・。
いいなあ。なんてうらやましい生活!
でも飼い猫ならともかく、縄張り争いやら食料確保とか煩わしいし、生魚やキャットフードばかり食べさせられるのも大問題だ!
じゃあ結局何になるのが一番幸せなんだろう?
ちょっと考えるだけで正解はすぐに出た!(^^;;
お昼寝しながら雲切目薬売って、お掃除嫌いでも何も言われないし、美味しくないご飯も文句言わずに食べてくれるM氏が夫君で、誰にも命令される訳じゃなく、何やっても叱られる訳じゃなく、眠くなれば寝て、お腹がすけば食べて、こんなお気楽人生他に無いじゃない!
パンダや猫よりあなたの方がよっぽど幸せだよ。(^^;;
願わくはこんな九子の日記を読んで面白いとか楽しいとかばかばかしいとか思って下さる方があらわれて、世の中にはこんなに何にもしなくても何にも出来なくても生きていられる人がいるんだね、自分はまだまだ九子さんよりマシな方じゃんと思ってくれたら・・・。
そう。この日記がネコちゃんみたいに読んで下さるあなたの心を癒せたら一番いいんだけれど・・・・。( ^-^)
兄は殺人犯 「アイシテル・・絆・・・」と「手紙」 [<九子の読書ドラマ映画音楽日記>]
例によってあてもなくチャンネルをまわして(正しくはリモコンを操作して(^^;;)辿りついたのが岡田将生だった。結局はイケメンに弱い九子である。(^^;;
タイトルは「アイシテル・・・絆・・・」
数年前話題になった番組の続編で、小学生が小学生を殺してしまった事件の犯人と犯人の弟の20年後の物語だそうだ。
岡田演じる弟直人は、小さい頃仲良く遊んでくれた12歳年上の兄智也が突然姿を消してしまった事を恨んでいる。兄に捨てられてしまったと思い込んでいた。
ところがある日直人は、ネットに出ていた20年前の小学生殺しの犯人が当時同じ小学生だった兄智也だったことを知ってしまう。
直人は兄ばかりではなく、事実をずっと隠していて彼に教えてくれなかった母親にも不信感を抱き、母と離れて一人で暮らしている。
犯行当時小学生と言えば、少年法に守られて彼のプライバシーはしっかり守られているはずと思ったのだが、現実にはどうなのだろう。
ネット社会はそんなことを許さないのだろうか?
少なくとも番組上では兄が殺人犯と言う事は近所中が周知の事実で、直人は言われの無い差別を受けている。
こういう場合、この地域を去って別の土地に行けばもっと楽に生きられそうな気がしてしまうのだが、母親は頑としてこの地を離れようとしない。少年の父親が彼の事を気に懸けながら病気で死んで行ったことが影響しているのだろうか。お墓を守るとか、そういう事なのだろうか。
このお話にはいい人たちが出てくる。直人の恋人の芸術家の加奈とその祖父だ。
彼らだけが直人の兄が殺人を犯した事を知りながら、彼を一人の人間として扱ってくれる。
兄が殺人を犯したために弟が不幸になるって話、どっかで聞いたなあと思った。
そうだ!東野圭吾の「手紙」だ。
読んだ時はそれなりの感慨にふけったはずだったのだが、もうすっかり記憶のかなただ。(^^;;
もちろん例によって筋も忘れてしまっているので、これを機会にさらっと読み直してみた。
比べてみると同じような状況を描いた作品ではあるが、東野作品のほうがはるかに現実を深くえぐっていると思った。
言ってみれば「アイシテル・・絆」はまだ甘っちょろい。
それぞれの兄の性格の違いが、罪の意識の違いが、実は微妙に影響を与えているのかもしれない。
直人の兄智也は、何もそこまでと思うほど自分の罪を意識しながら生きている。
小学生の時の、それも相手にバカにされて掴みかかったら倒れた相手が打ちどころが悪くて死んでしまった、言わば過失致死と言えるほどの罪なのに・・・。
智也を演じる向井理はふだんひょうひょうとした演技をする。
その向井が、このドラマでは熱い。
智也は言う。自分が殺した被害者はもう生きて何をする事も出来ない。自分だけが生きて、ましてや幸せになることなど許されない。だから自分は幸せに背を向けて生きて行かなければならない。
そして彼は、幸せからも家族からも遠のいて一人ストイックに生きている。
その禁欲がただ一度揺らいだのが、弟直人の皮工芸の個展開催を知った時だった。
12歳で別れた弟が個展を開く。それを知った途端、もう矢も盾もたまらなくなって兄は弟に小さな白い花束を贈る。
その花束が兄からのものだとわかると、弟はそれを地面に叩きつける。
直人の兄の智也がそこまで自分の罪を意識して、自分に厳しく生きているのに対して、「手紙」の主人公直貴の兄剛志は、弟に刑務所から出す手紙が弟の人生にどんな影響を与えているかなどと考えもせず、言わば習慣的に、そうするのが社会とつながる唯一の窓とばかりに、他愛の無い手紙を書き連ねてくる。
二人の兄の生きざまの違いが間違いなく弟の人生の生き難さに影響している。
ストイックな兄を持つ直人は、兄が自分と接点を持つ事をひたすら避けているので、ふだんは直人の存在を最小限に抑えて生きていられる。
ところが直貴の場合は、忘れようとしても兄の刑務所からの手紙がどこまでも追いかけてくる。
独特の桜の花の検印の付いた、見る人が見ればすぐにそれとわかる手紙だ。
これは辛い。ある時などは恋敵の目の前でこの手紙が配達され、もちろん結婚は破談になった。
だから状況としては、「手紙」の主人公直貴の方が数段悪いと思う。
「絆」の方が甘っちょろい感があるのは、ひとつにはこういう背景にあると思う。
それと最大の違いは、結論の持って行き方だ。
「絆」では加奈に赤ちゃんが出来た時、直人は自分のように不孝を背負って生きる事になるからどうしても産んでくれるなと懇願する。
それが兄智也と向き合い、苦しい思いをぶつけた後に、自分が兄からも母からも愛されて生まれてきたという事実を納得してようやく、直人は加奈が子供を産むのを受け入れる。
言ってみれば「愛されて生まれてきた人間は幸せに暮らして行く資格がある。」みたいな、ちょっとベタな結論の持って行き方だった様に思う。
ところが「手紙」は違う。
「手紙」では直貴が婚約者との間の子供を規制事実にして結婚にこぎつけようとする、いわば子供を結婚の道具に使うような場面が出てきた。それひとつとっても、現実のドロドロ感がある。
例によって直貴は就職先の会社でトップの成績をあげているにもかかわらず、人目につかない倉庫での在庫チェックの部署に回されてしまう。
そこへ平野というこの会社の社長が出てくる。彼が良識人の代表みたいな意見をとうとうと述べて、直貴も読者もう~んと考え込まされてしまう。
彼はこういう意味の事を言う。
刑務所に入ったのは自分じゃないのに、自分が差別されていると思っているだろう。だがそれは違う。
差別は当然なのだ。大抵の人間は犯罪などから遠いところへ自分の身を置いておきたいと願う。
犯罪者やそれに近い人間を排除するのは、しごく当然な、いわば自己防衛反応なのだ。
恨むなら社会ではなく、罪を犯したお兄さんを恨みなさい、と。
う~ん。これは正論だ。
ややもすると犯罪者家族に対する言われ無き差別は、日本人独特の「村八分」と同列に語られがちだけれど、確かに世界中どこへ行っても見られる自己防衛反応だとすれば、それを理不尽だと責める事は難しい。
この後も平野社長は要所要所で現れて、社会と言うものの姿を直貴に説く。
平野社長の言葉を羅針盤にして、直貴はどういう結論を選んだのか、そして救いの無い物語の最後に訪れる救いとはなんだったのか。
どうぞ皆様もご自身で「手紙」を読んでみて下さいね。( ^-^)
犯罪を犯すという事、ましてや人の命を奪うという事は、自分だけではなくて最愛の家族をも長い長い苦しみの人生に引き入れるという事をよくよく考えなければならない。
怒り心頭に発して誰かを傷つけたい衝動に駆られた時、家族への思いが防波堤となってその怒りが鎮められなければならない。
そうするためには、温かい家庭を築かなければならない。笑顔あふれる家庭の中で、子どもを生み、育てなければならない。
たとえ満ち足りた家庭で愛情いっぱいに育てられたとしても、それに気付けない不幸な人間だってたくさんいる。
それと同じくらい、逆境の中に育っても自分を失わずに幸せを勝ち取った人々だっているだろう。
でもとりあえず、出来るだけ自分の周りの空間は居心地のよいものであって欲しい。
それが幸せに通じる第一歩なのだから。
えっ?掃除嫌いの九子さんちは物や埃が溜まっててさぞや居心地悪かろうって?
って、それはまた別のお話。(^^;;











